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ハレルー・ヤー

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「ヤハウェは、全地の王となられる。その日には、ヤハウェのみ

 が、その名のみが存在する。」 (ゼカリヤ書14:9)

 

 

「まことに、諸々の民はすべておのおの自分の神の名によって歩

   む。だがわれわれは、われわれの神ヤハウェの名によって、

   終りまで、永久に歩もう』。」  (ミカ書4:5)

 

 

「見よ、神はわが救い、私は拠り頼んで、恐れることがない。

 まことにヤハは、ヤハウェは、わが力、わが誉め歌、

 私にとって、救いとなられた。あなたたちはその救いの泉から、

 喜びをもって水を汲む。」(イザヤ12:2~3)

 

 

「私は死なないで、生きよう そして述べよう、ヤハの業を。

 ヤハは私を懲らしに懲らした、しかし死には渡さなかった。」

(詩篇118:17~18)

 

 

「息のある者みなが、ヤハを讃美せよ。ハレルヤ。」

(詩篇150:6)

 

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身

 もまた、すべてのものをキリストに従わせた方(ヤハウェ)に従

 わせられるであろう。それは、神(ヤハウェ)がすべてのものに

 おいてすべてとなるためである。」(新約聖書 コリント人への手

 紙一15章28節)

 

そもそも「神」という言葉は、実際に「神」という名の人がいるし、人に対して「神がかり」とか、その略でしょうか最近は「神ってる」という言葉も流行り、なによりも「神」が神道用語であるということが最大の問題であり、あの忌まわしき侵略戦争においても戦死者などに対して用いられました。だから私はこれを自分にとっての信仰対象であり無上に尊い存在に対して用いることは断じて出来ません。ある教師は、カトリック教会で用いている「天主」がよいと言われましたが、私はこれよりは「創造主」の方がよいと思います。しかし一般的な意味での「遍在」は聖書から導き出せないとの立場から、「在天」を付けて「在天創造主」を提唱します。ただし、このサイトでは便宜上、上記の問題点を指摘したうえで従来の聖書訳語としての「神」をこのようにカッコ付きで表記します。

「神」はもともと中国語で、人間の霊魂を意味し、普通にいう「神」に相当するものは、中国語では「帝」なのだそうですが、日本では「神」は神社神道での意味で普及しており、その「神(神)」は相対・内在者に対する概念であり、これと同じ文字を聖書が啓示する絶対・超越者 God の訳語に用いたこと自体に誤りがあったのです。矢内原忠雄の本居宣長に対する批判にはこの点が端的に示されています。

神としての必要な特質の一つは絶対といふことである。即ち絶対神といふ考へであります。(中略)宗教の最高発展形態たる一神教に於いては、神といふ以上それは絶対者でなければならない。絶対最高唯一といふことは神の神たるに必要な本質であります。宣長に於てその信仰がありません絶対者最高者従つて唯一者としての神観がないのであります。といふのは、彼にありては神と人との本質的区別が明かでないからであります。(中略)もう一つ言はなければならないことは、人格者としての神、即ち人格神の観念が宣長にありません。神は単なる自然物若しくは自然力でなく、又世界精神といふやうな理念でもなく、産霊の働きをするところの活きて働く実在であるといふならば、それは人格的存在でなければならない筈である。宣長の見た神は儒家のいふ陰陽の理の如き単なる観念ではなく、生きて働く霊的実在であることを、素朴ながら彼は認めてをるのであります。ただ如何にもそれが素朴である。神が万物を生成し、人心に影響を与へ、人の生涯の吉凶禍福を司どるといふのであるならば、それは人格的な存在でなければならない。人格的存在でなければ、人格者たる人に対して働きを有つ事が出来ない。非人格的なものが人格的な人間の心に働きを有つといふならば、それは人の迷信である、作り事である、そら事である。」(『矢内原忠雄全集』〔以下、「全集」と表記〕一九所収「日本精神への反省」~「日本精神と平和国家」〔岩波書店〕p24~27)

矢内原氏にとっての「神」はキリスト教正統教義における「三位一体の神」ですが、その点を脇に置いてこの文章を読めば、私も大いに共感できます。

疲れたりして気弱になった時などに、ふっと体の底から活力が湧き上がってくることはあり、その活力を「神」と呼んでしまいたくなる時がありますが、すくなくとも聖書における「神」は「人格」です。また、矢内原氏は「神を知る」ことの意義をヨブ記との関係から次のように述べています。

<〔ヨブ記425について〕 之(これ)がヨブの疑問を解消した。疑問の内容を解いたというよりも、寧(むし)ろ疑問の心を融(と)かしたことによって、彼の疑問を解決したのである。
〔同426について〕 神はヨブの苦難の原因を説明し給(たま)わず、又(また)神の審判が義(ただ)しきことを積極的に説明し給わなかった。即(すなわ)ちヨブの抱(いだ)きたる疑問に対して、直接の答を与え給わなかった。しかもヨブがかく満足したのは彼が神についての直接的な知識を啓示せられたからである。彼は前よりも深く広く神を知った。神について深く知れば、その他の問題は問題でなくなる。即ち問題に解決が与えられたのでなく、問題そのものが解消したのである。この解決ならざる解決が真の力ある活(い)きた解決であって、人生の推進力たり得(う)るものである。それは哲学的解決ではなくして宗教的解決であり、頭脳による解決ではなくして生活による解決であり、知的解決でなくして信仰的解決であった。・・・・・ (『全集』第13巻.300頁)>

 

「人格神」のという場合の「人格」の意味は論者によって違いがありますが、聖書の「神」が「人格神」であるという決定的な根拠は、「人格」を持つ一人の人間であるナザレのイエスとの関係において「父」として示されていることです。「子は親を映す鏡」という諺がありますが、実にイエスは「子」として「父」としての唯一絶対の「神」を映現した「鏡」の役を果たした人物だと思います。イエスが神格化されたのは、その「鏡」に映った「神」とイエス本人とが混同されたからでしょう。しかしヨハネによる福音書がイエスを「子なる神」としているのはそういうことではなく、まさにイエスという鏡があまりに「神」の性質を鮮やかに映し出しているので、「子なるイエス」と「父なる神」とが二重になって見えたためだと解されます。二重と言ってもそこには滝沢克己氏の言うところの「不可同・不可逆」の関係があります。「不可分」だけではないのです。ここに「従属説」の根拠があります。

ペトロが「ナザレ人イエス・キリスト」の「名」こそ「私たちがそれによって救われるべき名」と述べているのは(使徒4:12)、まずもって「イエス」が「ヤハウェは救い」を意味しているからだと私は受け取ります。そもそも「キリスト」というのは「油注がれた者」を意味するヘブライ語「マーシアハ」(慣用カナ表記「メシア」)のギリシャ語訳で「油を塗られた者」を意味する「クリストス」の日本語音訳であり普通名詞であって「名」ではない。「名」はあくまでも固有名詞。「イエス」はヘブライ語「イェホシュア」の短形「イェシュア」および「イェシュ」のギリシャ語訳「イエスース」ないしはそのラテン語訳「イエースス」の日本語音訳。これについては以下の指摘があります。

紀元前後のイスラエルでは、ヘブライ文字 ע (アイン)の発音が母音化したり、消えてしまったりする傾向があります。そこで『イェシュア』ではなく、『 יֵשׁוּ イェシュ』と発音されていたという説もあります。(サイト「日本ヘブライ文化協会」の「25『イエス』はヘブライ語?」)

http://www.h3.dion.ne.jp/~ivrit/Q&A.htm#「イエス」はヘブライ語?
補足すると、イエスの時代のガリラヤの人々がおもに用いていたアラム語では「 h 」の発音が保持されるので、基本的には「イェホシュア」が短縮されて「イェシュア」になることは考えにくいのですが、語末のアインを「a」と発音する「先読みのパタフ」とか「潜入パタフ」といわれるヘブライ語の規則がアラム語にはなく(ヘブライ語と接触して成立した「聖書アラム語」にはある)、「イェシュア」が「イェシュ」になることはあり得るということです。「イェ」が「ヤハウェ」の「ヤハ」または「ヤー」の変化で、これを「語頭音節 a の弱化規則」といいます。


私は、聖書が示す「神」の特徴として「超越(性)」と「〔唯一〕絶対(性)」と「在天〔局在〕(性)」をあげることができると思います。だから「神」の内在が説かれていてもそれは「超越的内在」であり、「神」の自己啓示としての自己限定、自己相対化が説かれていてもそれは「無制約的限定」、「絶対的相対」であり、「神」の遍在が説かれていても基本は「在天」ですから「局在的遍在」であると言えます。

・・・ということで、<わたしは神を信じます>と<わたしは「神」を信じます>との違いのように、表記は <神> にカギカッコを付けて<「神」>とし、一般的な意味とは異なる旨を表しているわけです。冒頭では神道用語の神をカギカッコを付けて「神」と表記していますが、これと、今、私が申している「神」とは意味が異なることは言うまでもないでしょう。

しかし前者としての「神」が聖書の訳語として社会的に浸透しているということも考慮し、このサイトでは便宜的に「神」を用いております。

 

ちなみに「ハレルヤ」はもちろん「晴れるや」ではありません。

「ヤ」(yah)」(=「ヤー」=「ヤハ」)は、旧約聖書で「主」と訳されている神の名「ヤハウェ」の短縮形・省略形です。「ヤハ」か「ヤー」かの違いは「h」の弱化と聴覚の程度によるもので大した問題ではありません。ヘブライ語は読み書きの言語であるよりも聴き語る言語なのです。「ヤハウェ」や「ヤーウェ」とように「YHWH」と読む場合と、「ヤハヴェ」や「ヤーヴェ」のように「YHWV」と読む場合との違いは、もともと3番目の文字が「W」(ワウ)だったのが紀元前3世紀頃に「V」(ヴァヴ)に変化したことによるものです。これもどちらでも大して問題ではありません。ちなみに日本の旧約学の大家であった関根正雄氏は「V」で訳しておられます。

 

「ハレルー」は、「賛美する」を意味する動詞「ハーラル」の強意形(ピエル語幹)の「ヒッレール」に、2人称男性複数に対する命令形の語尾「ウー」が付いたもので(※「ハーラル」という動詞形は存在せず、ピエル・プアル〔受け身〕・ヒトパエル〔再帰・習慣〕しか用いられない)、全体の意味は「あなたたちはヤハ(ウェ)を賛美せよ」です。

もう少し詳しく書くと、語根 hll のピエル語幹 h-ll-l が「賛美する、讃える」の意味で、これを命令形の -a-e- に当てはめると hallelになり、これに男性複数語尾 -u を付けて hallelu となります。そしてアクセントを持つ語尾の前の短母音 e が弱化して hallluあなたたちは賛美せよとなるわけです。

ヘブライ語は右から読みますが、最初の文字(ヘー)の下のヨコ棒(パタフ)が短母音「ア」を示し、二番目の文字(ラメド)の下の記号は発音が「ェ」です(有音シェワー)。

最後の二文字が「ヤー(ハ)」で、前から一文字目(ヨード)の下にあるTのような記号(カマツ・ガドール)が長母音「アー」を示し、二文字目(ヘー)の中にある点(マッピーク)は子音として読まれることを示します([h])。専門家によると、マッピークはドイツ語の ch のような強い子音だったと思われ、「ヤー(yah)」とか「ヤハ(yaha)」と表記するのはちょっと違うみたいです。すくなくとも「ヤーハ」のような間延びした発音ではなく、あえてカタカナで書けば「ヤーッ」とでもいった、緊張感をにじませる鋭く切れる音だそうです。

まあ、言語は厳密に言い出せば意味も発音もキリがないので、たいがいのところで良しとすべきです。それが聖書の神名については「ヤハウェ」(または「ヤㇵウェ」)とか「ヤーウェ」とその短形の「ヤハ」、「ヤー」ということです。

ちなみに、左近淑氏は、「YaHaWeHとよばれるものの文法的形態」について、使役の「彼は在らしめる、彼は創造者である」を意味するという説を排し、「ヤーウェをhwh・未完了・QALが神名になったものと解するのが最も適当であると考えられる。」としている(左近氏の論文「イスラエルの神ヤーウェ」~山本和編『現代における神の問題』〔創文社〕p31)。