考え過ぎ(=啓示逸脱)の哲学

 

(1)災いの日

 

<出典はテルトリアヌスあるいはアウグスチヌスにあるとされるが誤りで,これは中世キリスト教信仰の2つの態度「知らんがためにわれ信ず」 cred ut intelligamおよび「信ぜんがために知解する」 intelligo ut credamに対比して用いられる。>(~ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の邦訳)

 

「ヤハウェは、すべてのものを自分の目的のために造った。邪悪な者をも、災いの日のために。」(箴言16:4 勝村弘也訳)

「幸いの日には幸いであれ。災いの日には〔災いを〕見つめよ。人間が後のことを何一つ見きわめ〔られ〕ないようにと。神はあれもこれも造り出したのだ。」(コーヘレト書7:14)

 

箴言16:4の新共同訳は、「主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。 」と、原文の「パーアル」を「行なう」という意味で訳しているが、この語には「造る」という意味もあり、文脈的にはそちらに訳す方が自然。口語訳は「主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。 」、新改訳は「 主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。」と、いずれも「造る」方で訳している。ただしミルトスの対訳では「主は彼の目的のためにすべてを行なう。悪い者をも災いの日のために」と、「行なう」方で訳している。おそらく主なる神の6日間の天地創造は、その過程で「よしとされた」(キー・トーブ)だけではなく、最後に造ったすべてのものを見ると「非常によかった」(トーブ・メオード)と積極的に肯定されているので、悪人の創造と矛盾するとみたからだろう。しかし客観的に意味の通りは「造る」方がよい。創造主の絶対性は人間の論理的整合性などを超えている。

コーヘレト書7:14の新共同訳は、「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ 人が未来について無知であるようにと 神はこの両者を併せ造られた、と。」で、口語訳(伝道の書)は、「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。」 新改訳は、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」

 

どのような文脈においてどのような意味で言われているのかは知らぬが、「不合理(または不条理)ゆえに我信ず」(credo quia absurdum)という場合の「不合理(または不条理)」が何を指しているのかが問題であり、「三位一体」のような教理を指しているなら、それ「ゆえに我信ず」というのは、その「我」にあてはまる信者たちを盲信に導く詭弁と言える。しかしそうではなく、この現実世界を指しているなら、それ「ゆえに我信ず」というのは、ある意味を持ち得るだろう。何を信じるのか・・・言うまでもなく「神(の実在)」を・・・であり、その「神」が「善」(と言っても人間の相対的「善」とは区別される)の意志をもって歴史を導いておられるということだ。そこに人類にとっての一縷の希望がある。

 

それにしても、この言葉を独立した命題として読めば、「ゆえに」というのはおかしい。おかしくないとすれば反対命題としてである。すなわちこの前に、「(現実世界は)不合理ゆえに(創造主としての)神を信じる能わず」といった一般的命題があり、これを強く否定して、「(むしろ現実世界が)不合理ゆえに我(神を)信ず」といった意味で言われる場合だ。

あるいはまた、「不合理(不条理)たりとも我信ず」とも言えるだろう。「不合理(不条理)」を「アンフェア」という言葉に置き換えるなら、「アンフェアゆえに我信ず」はアリかも知れない。世界の全てが公正・平等で何一つ「差異」がなかったら、これほど面白くない世界はないだろうからだ。そのような世界を神がよしと言って創造なさったと信じることは困難かも知れない。問題なのは摂理としての「差異」を越えた無用な「差別」を人間が作ってしまうことである(人種差別、身分差別などの境遇差別)。いずれにせよ、私は多くの人々が関心を抱く「神義論」的問いには関心が無い。「神の義」は人間の正義などとは次元を異にするのだ。そもそも「神」が創造し摂理しておられる現実を「不条理」だと人間が断定すること自体が問題であり、実は「条理」が有るのかも知れない。たとえ無いとしても信仰に変わりはない。

 

もう一つ、マルティン・ブーバーの「はじめに関係ありき」も重要なタームだ。自己というものは身体的実感として存在するが、その実感がどこからくるのか、その根拠は・・・と言えば対神関係しかない。この関係もまた実感によって確かめ得るのだが、とにかく関係が先にあって自己身体は後である。「神」という究極存在との「関係」が実感されることが自己の確かさを実感するために必要なのだ。

 

野呂芳男という人の著書に『実存論的神学』というものがあり、この中で次のように述べられている。引用の前に書いておくが、私はこの内容には大いに違和感がある。

「カミュは、確かに、反キリスト教的である。ところが、カミュのキリスト教の理解は、主にローマン・カトリシズムから来ているもののようである。ローマン・カトリシズムの神観は、言うまでもなく中世的であって、客観的・世界観的に神を認識しようとの努力である。神を世界観的に認識する以上、そのような神の支配する世界には、究極的には、不条理は存在しない筈である。ところが不条理は厳然と存在するのであるから、もし神が、この世界の究極的な支配者として世界観的に考えられるならば、殺神(deicide)こそ人間の義務である、とカミュは主張する。私は、カミュの世界観的なキリスト教へのこの反逆に賛成する。世界観的に神の全能の摂理を考えて、人間を脅かす悪の根拠を、究極的に神に帰するならば、そのような神は、人間の愛と崇拝とを受ける資格がないどころか、むしろ、その神に反逆し、その悪魔的な神と戦うことこそ、きわめて人間らしいことである。われわれは、人間らしさを放棄してまで信仰をもつ訳には行かない。それは不正直である。不正直を強制される位なら、喜んで地獄の火をも浴びよう。われわれの生の苦しみが最後的には神から由来していると、どれ程敬虔に思索し、納得してみたところで、少しも生産的ではない。苦しみを忍従的に受けとることが信仰ではなく、それをなくすように、また、その苦しい条件から逆にそれを利用して、もっとよいものを創作することこそ、信仰的態度である。世界観的な神の否定は、いきなり、実存論的に信じられる神の否定を意味しない。人間とともに不条理と戦い、その不条理にもかかわらず、逆にそれを利用してそれから新しい創作をなさしめるように人間を助けて下さる神を信じることはできる。創作的生を与える主体として、実存の歴史創作の場で、神は思索されなければならない。」(p37~38)

野呂氏は、「不条理は厳然と存在する」と断言しているが、仮にそうだとしても野呂氏のように神義論の思弁を弄するだけが神学者の仕事ではないだろう。赤の部分には賛成しないこともないが、その後がいけない。「人間とともに不条理と戦い・・・人間を助けて下さる神」など絶対者などではないからだ。野呂氏の神学は「神を相対化する神学」に他ならない。「実存論的神学」とは「まえがき」によると、端的に言えば、聖書の実存論的解釈を土台とした組織神学ということのようで、「実存論的神学の立場からみれば、伝統的な三位一体論・キリスト論・贖罪論は、新しく考え直さなければならない。」(p25)とか、伝統的な信条に対して「非神話化、実存論的解釈を行わなければならない」(p25)と書かれてあり、それはそれでよいと思うが、上記の引用箇所などを見ると、結局のところ人間本位の思索である。すなわち人間にとって都合のよい偶像神を創作する神義論的神学であり、ヤハ神の支配下に不条理の現実があることに対して思弁を停止する「聖なる無知の告白」(ヨハネス・G・ヴォス)をなし得ない神学のようだ。人知では測り知れない神秘は、三位一体など人間が創作した教義にあるのではなく、まさにこの現実にこそ認め得る。本書では伝統的な神学の思弁的な態度を批判してはいるが、上記の引用箇所に明らかなとおり自らもかなり思弁的である。本書で紹介されているブライトマンの「有限の神」の思想も、「伝統的な神学が主張してきたようには、神の全能の支配の中に、自然悪や、その他の人間の自由意志によらないいろいろな悲惨が、併呑されて考えられていない。むしろ、神は、それらと敵対関係にあるものとして思索されている。」(p39)というように二元論的世界観であり、聖書が啓示するヤハ神の絶対性が否定され、相対的な存在にされている。伝統的神学に批判的な私が、実存論的神学に対しては局所的であれ、伝統の側に立つこともあるというのは皮肉なことだ。

 

<野呂芳男氏は、「究極的なもの(the Ultimate)」と「絶対的なもの(the Absolute)」とを区別する。すなわち前者は芸術的概念であり、後者は哲学的概念であって、「神」を絶対であると言うなら、その「神」は「一存在者」ではあり得ず(=相対的存在になるから)、ティリッヒのいう「存在の力」とか「存在の根底」といった非人格的なものにならざるを得ないという。だから野呂氏は「究極的存在者」としての「神」を求めるのだという。「人間が求める神は真・善・美への憧れを十分に満たしてくれる究極的な存在者であって、絶対的なものではないのである絶対という哲学的なものを神とすれば、その神は、そこからすべてのものが出てきて、またそこへ帰る場なのであるから、その神は善も産出するが悪も産出する。つまり、その神は善悪混合である。(中略)哲学的に絶対とか無とかいう言葉で表現されているものは神ではなく、そこで神や人間やその他の存在が生きて、真・善・美を求めて苦闘するであると、私は考えているのであるが、これは教会教父たちの贖罪論に見られる二元論に近い発想である。」(~『キリスト教の本質』所収「究極的なものと絶対的なもの」)

それで結局、野呂氏にとっての「神」とはどのような存在かというと次の文言があげられる。

「ルイス教授の思想を借りて、私なりに言えば、神は、もしもそれが可能ならば不条理をご自身の力で破壊し、それができなければ不条理を迂回してわれわれを導くのである。神はわれわれの主体性を重んじて強制は全くなさらず、われわれが破壊へ向かう時も、ご自分が(比喩的に言えば)傷つけられながら、神はわれわれが自分たちの自由で神の所に帰ってくるのを待つ。神はこの宇宙空間の中で不条理を征服したり迂回したりして闘いながら、被造物との間に愛の共同体を造って行くのである。」(同上)>(~サイト「創造主帰一」の「場所的人格」)

<野呂氏は、「不条理に満ちた現実に生きている我々にとっては、神だけは痛んだり苦しんだりして欲しくない」(『神と希望』日本基督教団出版局、273頁)と述べている。同じように「20世紀以降特に際だつ歴史的世界の残酷と不条理を前に」しながら、森本氏やユンゲルと外見上は逆の主張をしているわけである。もっとも、神が苦しむと言っても、その痛みが神の本質に関わるがどうかが問題なのであって、野呂氏の主張は、痛みが神の本質であってはならないということだ。この主張は、北森嘉蔵の「神の痛みの神学」への野呂氏の批判と関係がある。苦しむ神の重要性に気づいた欧米の神学によって北森神学が引き合いに出されるが、にもかかわらず、北森神学にもっとも近いモルトマンでさえ、(佐藤氏も書かれているように)痛みを神の本質のうちに持ち込まないという点で北森神学とは異なっていると野呂氏は見ている。ところで、この野呂氏の主張は、「有限の神」という主張とも微妙に関わっている。一見、苦しむ神を批判することは、神の全能という主張からなされるように見える。神が苦しむのなら神の全能に制限が加えられるのは容易に想像できるからである。しかしながら、野呂氏の場合は逆に神は有限であるという立場なのある。氏は、北森嘉蔵がある時期に「有限の神」という思想に接近したと書いているが、野呂氏はそれを非難しているのではなく、北森氏がさらにその考えを展開させなかったことを残念だと言っているのだ(『神と希望』238頁)。この「有限の神」という主張も、不条理の時代である20世紀における弁神論の問題からまさに出てきている。神が全能であるなら、この世の悪もまた神の一部であるということになってしまう。野呂神学は神の全能を捨てても、神が悪を含むという立場を拒否するのだ。神は愛を本質とする。だからこそ希望となりうるというのである。この主張は、究極的につきつめていけば、二元論の枠組みを受け入れるということを意味し、グノーシス主義やカタリ派の主張を取り入れることになるこのように、それこそ「異端すれすれの線上」どころか「現代の異端」とも言うべき野呂神学(先生、ごめんなさい!)が、痛みを神の本質のうちに持ち込むことをこれほど拒否するのは何故か、ということはよく考えてみる必要がある。それはもちろん、キリスト教の主流から外れる事への恐れではない。ここではとりあえず、『神と希望』(269-273頁)にあげられている要点をまとめておこう。

信仰者の生きる意味は、祝福に満ちた神との一体化であって、痛みや苦しみを味わうことではない。痛みを神の本質に帰することは、痛みや苦しみをそれ自体で良いものである、ということにしてしまう

苦しめる者への愛は、その苦しみへの想像力を必要とするとしても、必ずしも同じ苦しみを体験することを必要とするものではない。

苦しめる者にとって、神が同じ苦しみを体験してくれることよりも、この苦しみを滅ぼしてくれることの方が重要である。

神が満ちあふれる喜びであるからこそ、われわれは自己の悲惨と罪から救われて、神との祝福の交わりに入りたいという意欲を与えられる。神の本質が苦しみであるなら、われわれは一体救われることを望んでよいかわからなくなる。

以上のことは、神が人間を苦しみから救うために進んで苦しみを負ってくださることを否定するものではないし、われわれがそのような神の在り方にならって、他者と苦しみをともにすることをさまたげるものではない。>(~サイト「屋根裏の外の思考」の「苦しむ神と有限な神」)

 

私は、後で引用する西谷啓治氏および小田垣雅也氏の「絶対無」神論よりかは、この野呂氏の神論の方が、聖書に示された(人格)神観に近いと感じる。所詮、哲学的概念を並べても対神関係の実存的事実を表わすことはできない。ただし、「有限神」観はいただけない。

矢内原忠雄氏が本居宣長批判において「神」の要件として「絶対」と「人格」を挙げているとおり、「唯一絶対の人格神」ということは聖書的神論には不可欠。だから問題は、「絶対」と言っても「相対的」な意味もあり得ることを聖書啓示から認め得るかどうかである。

そもそも「創造」の業が・・・そして「啓示」ということ自体が、「絶対他者」なる神の「自己相対化」である。その意味では、聖書に啓示された神は、言わば「相対的絶対者」であり、西田哲学系の言わば「絶対的絶対者」のような「無」とはならない・・・あくまでも「有」なる人格的存在なのである。

History(歴史)の次元では「啓示」は客観的事実ではあり得ず、神が人となりし独り子である「主イエス・キリスト」は実在しない。しかるに、His  S t o r y(聖書の物語)の次元ではイエス・キリストは、神の自己相対化・自己対象化としての「絶対的相対者」であると解し得る。すなわち聖書の物語では、イエス・キリストは「神」とも言われ「神の子」とも言われ「聖霊」とも言われる。そしてまた「人の子」とも言われ、一人三役どころか四役をつとめている。だからイエス・キリストは神と人間との関係を示しているといえる。その意味で「仲保者」なのだ(テモテ一2:5)。

私は、His  S t o r y の次元においては、小田切信男氏の神観およびキリスト観に近い。つまり自分の新約聖書の解釈においては、イエス・キリストの神性は認めるが、それは神の御子としてであって神ご自身としてではないということ。その点で正統的教義としての「三位一体」のような解釈にはならない。

そして私は、Historyの次元においては、ユニテリアンの信仰に近い。つまり自分が聖書よりも信仰基準としている内的な感覚においては、イエス・キリストは歴史上の人物ではないし、人間が神性を有することは一切、認め難い。仮に再構成された史的(=私的)イエス像において、ヨハネによる福音書の10:30や12:45や14:9に記されたような言葉をイエスの発言として認めるとしたら、彼はある種の神秘主義者だったことになる。だから自己と神との相互内在をも語っているのであって(10:38他)、決して文字通りの意味で神の御子などではなかったのである。しかし神秘主義者とは言え、神との不可逆の関係秩序を自覚していたであろうことは、5:19,30や8:28,49,54や13:16や14:28などに反映されていると見ることも出来る。しかし、このような文言自体、史的イエスの発言としては現実味が薄すぎる。

 

ヤハ神信仰において、「救い」は必ずしも死後に天国・極楽に行くことではない。すくなくとも、それだけではない。ヤハ神との関係を生きること、それがすべてである。ヤハ神がアンフェアな現実をどうもしないとしても、それは人間にとって都合のよい存在(=偶像)になり下がらないということであり、まことに生ける神であることの証しでもある。たしかに神学的思索においては、誰もが自分に都合よく神をイメージするという傾向があることは否定できないが、それも程度問題である。特に創造主の実在と(人間にとっての)不条理の現実とが矛盾すると考えると俄然、形而上学的思弁に陥る。矛盾すると思うのは、ヤハ神の愛の面ばかりを見て強調しているからだ。ヤハ神は絶対者であり無制約者である。いかに人間にとって「正義」とか「公正」の根拠が「神」であるはずでも、大いなる神は人間に都合のよい根拠などには収まらない。常に人間の希望や期待を積極的に裏切り続ける。それでこそ生ける神なのだ。地獄というものがヤハ神との関係を断たれる状態を意味するなら、それは最悪のニヒルだと言えるだろう。しかるに私はヤハ神と関係なき世界の存在など信じない。

 

 

 

以下は「精神不安定者のための福音」というサイトからの引用。

 

<「何か窮極のものを信じるためには、それ以上は考えないという思考停止が必要になります。(中略)要するに、思考停止が自我の一応の安定を支えているわけです。」(岸田秀著『希望の原理』〔青土社〕p17~18) その「思考停止」とは「知止」とも言える。考え過ぎない知恵がこれです。老子の徳経 立戒第44に「知足不辱、知止不殆、可以長久。」〔足るを知れば辱(はずか)しめられず、止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず。以(も)って長久なるべし。〕と「知足」と共に「知止」が言われ「止足の計」といいます。「知止」は32章にもあり「名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆。」名亦た既に有れば、それ亦た将に止まることを知らんとす。止まることを知るは殆(あや)うからざる所以(ゆえん)なり)〕といわれています。老子の言う「知止」の意味とは少し違うでしょうが、知欲制御的意味の「知止」ならむしろ四書の一つ「大学」の冒頭文の「知止而後有定、定而後能静」〔=止まるを知って後、定まるあり、定まりて後、よく静かなり〕云々の「知止」の方がこれを包括し得るでしょう。 >

<禅語に「息念忘慮 仏自現前」というのがある(~黄檗禅師『伝心法要』の冒頭)。その意味について禅文化研究所の西村惠学氏が次のように教えてくれた。

「唯此一心即是佛。佛與衆生更無別異。但是衆生著相外求。求之轉失。使佛覓佛。將心捉心。窮劫盡形終不能得。不知息念忘慮。佛自現前。」(=「唯だ此の一心、即ち是れ仏にして、仏と衆生とは更に別異なし。唯是(あらゆ)る衆生は相に著して外に求め、之を求むるに転た失す。仏を使って仏を覓め、心を将って心を捉う。劫を究め形を尽くすも、終いに得ることを能わず。念を息(や)め、慮を忘ずれば、仏自ら現前することを知らず。」) つまり、「外に仏を求めても、求めれば求めるほどそれを見失うばかりであり、自分のイメージで想定して求めても、いつまでたってもどれだけ努力しても、それをつかむことはできない。一切の思慮をやめて思念をなくしてしまえば、仏は目の前に現れてくるものなのだ」ということです。>
これは「仏」だけではなく「神」についても言えることのようだ。つまり「神」についてのいろんな言説を、つまり自分の内面における現実の「神(との)関係」の外のものに神の真相を求めたところで把握できるどころか、プロセス神学など悪しき思弁に感化されて精神が不安定になり、却って真実を見失うことになりかねない。たとえば小川圭治著『神をめぐる対話――新しい神概念を求めて』という本が気になるからと言って古本でも4千円以上の大金を投じて購入したりすることは無駄だということ。そんな必要など無い。活ける神が自分の内に(存在するのではなく)現前する。八木誠一氏の「直接経験」A~C説で言えばB(我-汝直接経験)であろう。このように自分の「(対)神関係」を意識に及ぼして自覚化する媒体としては神学諸説も有効だが、それ以上のものではない。気にし出すとキリがなく疲れるし浪費につながるのでよくない。だからそう漁らずに、無用な知的欲求(念)を止めて内面に集中し、そこに活ける神を感得する方が本質的でよい。それを「神自現前」と言えば言えなくもない。モーセが神と対面したという事情も、そのような実存的体験を意味するのだ。

 

「とにかくも、坐禅の体験知がキリスト教内部で展開すれば、ある『絶対人格』がどこか特別なところに実体として存在しており、それが人間を支配・制御しているというような観念的発想は、放棄されざるを得ないであろう。その代わり、『神』をわれわれの最深の本来性と等しい、空なる愛のエネルギーとして見るような理解が発生するであろうと思われる。」(佐藤研著『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕p19~20

この佐藤氏の予測は、非人格的・非対象的な神観・神理解に偏っていると思われる。「絶対人格」としての神観に慣れている人にとっては、「空なる愛のエネルギー」といった感覚だけでは頼りないといった思いもあるだろう。下記の引用で八木誠一氏も指摘しておられるように人格的な神観と働きとしての神観の両面があり、そのことを言わないと実際的ではない。やはり人格的・対象的な神観・神理解も必要とされ、残り続けるのである。哲学的「(絶対)無」のような度過ぎた神観・神理解では現実にそぐわない。つねに両方を捉えて然り。

神についての語り方は、人格主義的なものと場所論的なものと両方あって、(中略)キリスト教では場所論のほうが忘れられている(中略)新約聖書には両面あるわけですが、人格主義というのは神の超越性が強くて、場所論のほうが内在性が強いと思います。(中略)人格というのはコミュニカント(communicant)です。>(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東京大学出版会〕p24~25)

ここでの対論で、八木誠一氏の著書を一冊も読んでいないという加藤信朗(東京都立大学名誉教授.ギリシア哲学・教父哲学)という人が、「人格神」という言葉は全然分からない言葉で、Personal Godというのは、日本人にはどうしても「Personified(人格化された)、つまり人みたいなものだと」受け取られてしまうと述べている。そして最近までイグナチオ教会の正面に「キリスト教の神は人格神である」と堂々と書いてあったが自分には全然分からないという感じがしたのだと語っている(p25)。これに対して八木氏は上記のとおり、「人格というのはコミュニカント(communicant)だと述べ、アウグスティヌスが『告白録』の最初で「主よ、あなたは偉大であり、いとも讃美すべき方であられます」という呼びかけが「人格神」への呼びかけであると言う。加藤氏はこれを「違います(笑)。」と否定するが八木氏はすかさず切り返し、<いやいや、私どもが神を人格神という場合、「人格」という言葉にとらわれないでください。人格という言葉から神を理解するのではなく、逆にアウグスティヌスが Magnus es,domine,et laudabilis と神に人間の言葉で語りかけている。そういう語りかけができる。このような仕方で語りかけられる相手を人格的というのだと、逆のほうから考えていただきたいと思います。>と述べている(p26~27)。

<私は「神が人格である」とは、あまり言いたくないのです。しかし「神については人格主義的に語ることができるし、語らなくてはならない」と思います。場所についても同じで、そのように考えております。神が自分の中から働きかけているという面を場所論的と言いましたが、それに対して神の私に対する語りかけは、ほかの人格を通して語る場合、歴史を通して語る場合、あるいは聖書といった文献を通して語りかける場合があります。つまり、そういう「媒介」があるわけです。この場合、その媒介者は自分自身ではなくて、自分の外の「人格」とか、場合によっては「自然」でありうるわけです。そういう外にある媒介を通して、私に語りかけてくる神は、やはり人格主義的にしか語れないのです。そういう面を見ますと、つまり自分の中から、あるいは外から神が働きかけるという両面を正確に言おうとすると、場所論的な神についての語りと、人格主義的な神についての語りがある。人格主義的なという場合には、神が歴史上の出来事を通して語るということもありますから、これは人間の理解を超えた、ある意味では奇跡と言われるような出来事もあるかもしれません。そういう事柄を通して、語りかけることもあるわけです。ですから、そういう面をちゃんと言おうとすると、人格主義的な語り方にならざるをえないし、そこでは「祈り」ということも意味を持ってくるわけです。ただ、その祈りを一方的に人格と人格との間の対話と考えるのは、ちょっと問題を感じています。なぜなら同時に、祈りが成り立つというのは、私の中における神の働きの結果だとも言えるわけです。ですから、その両方を言わないと、人と神との関係は正確には語れない。つまり、神が「人格」で「ある」、「場所」で「ある」とは、実はあまり言いたくないのです。神について語ると、どうしても一面では人格主義的になるし、そこでは祈りも成り立ってくる。他方では場所論的な語り方が必要になってくるし、そこでは「目覚め」とか「自覚」とか「悟り」という言葉が意味を持ってくる。そのように考えています。>(同書p164)

人が体験する「神」には語り出される場合、人格主義的と場所論的の両面があるということは次の遠藤周作氏の文言にも明らかに見て取れる。

<――あなたにとって、神は働きだと言っておられますが、その働きを具体的にどう感じるんですか。

私が神の存在を感じるのは、今日まで背中を何かが押してくれてきたという感じがまずするからです。自分の過去をずうっと振り返ってみると、私を愛してくれたり、支えてくれたりしたいろんな人がいますが、その人たちがアトランダムにあったのではなくて、目に見えないある一つの糸に結ばれ、一つの働きの上で私を支えてくれたのだという気持があるからです。生まれてから現在につながる糸があるとすれば、その糸にずうっとある力が働いていたのだなという感じを持つのです。そうすると、私の個性とかいったものよりも私をつくってくれたそれらのもののほうが大事になり、この大きな場で私は生きてきたという気がするのです。それを私は神の場とよびます。たとえばもしあなたが、私がいままで話してきたことを聞いて、キリスト教に興味を持ち、やがて洗礼を受けたとすると、神は直接目に見えるわけではないけれども、私という者を通してあなたに働きかけたことになる。神はいつも、だれか人を通して何かを通して働くわけです。私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時神の働きを感じます。このことを私は『沈黙』の最後に主人公の口を通して書きました。(中略)悪の中にも罪の中にも神の働きがあるということを言っておかねばなりません。どんなものにも神の働きがあるということです。病気でも、物欲でも、女を抱くことにでも神の働きがあるということを、小説を書いているうちに私はだんだん感じるようになりました。神は存在じゃなく、働きなんです。 >(『私にとって神とは』〔光文社〕p19~22)

その『沈黙』の最後の主人公の言葉は、「神は沈黙していなかった」云々です。この作品で特に「神」とか「キリスト」について神学的に問われている箇所は次のフェレイラの言葉です。

(以下、引用開始)

「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」

フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った。
「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」
その言葉は動かしがたい岩のような重みで司祭の胸にのしかかってきた。それは彼が子供の時、神は存在すると始めて教えられた時のような重力をもっていた。
「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」
「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」
「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」
「あなたが二十年間、この国でつかんだものはそれだけですか」
「それだけだ」

フェレイラは寂しそうにうなずいた。
「私にはだから、布教の意味はなくなっていった。たずさえてきた苗はこの日本とよぶ沼地でいつの間にか根も腐っていった。私はながい間、それに気づきもせず知りもしなかった」
(以上、引用終わり)

遠藤氏にとって「神とかキリストとかいうのは、働き」であるということが示されています。ふつうは「神とかキリスト」は人格的な「存在」ですが、遠藤氏自身にとってはそうではないと言うのです。遠藤氏は上記のエッセイの中で、<『沈黙』の最後に、「おまえの人生を通して私が語っているので、沈黙しているのではない」と書いたのは、いま言ったXの中で私が神の働きの証明をしているのだということを言いたかった>と述べています。これは主人公のロドリゴ神父に対するイエス・キリストの言葉です。実は神は「沈黙」していなかった、ロドリゴ神父の人生を通して「神とかキリスト」は働くことにおいて語っておられたというわけです。その働きは基本的に「愛」であり、苦しむ者と共に苦しむということでしょう。

遠藤氏は八木氏の場所論的神学の影響を受けてこのように書いておられるだろうことは「はたらき」とか「場」という表現から察しがつきます。遠藤氏は「神というものは対象ではありません」とか「神は存在じゃなく、働きなんです」と述べておられながらも、「背中を何かが押してくれてきた」というように、まさに「神」を擬人的に(それを人格的対象としてと言えるかどうかはわからないが)、すなわち存在として語っておられる。そうならざるを得ないのだ。いくら「神≠対象・存在」であり「神=働き」だと言っても、「神」は「人格・対象」か「非人格・非対象」のいづれかではなく、その両方において語られるからだ。「神」は「人を通して」、「その人の人生を通して働く」からこそ「人格」だと言える。この点は小田垣雅也氏が西谷啓治氏から影響を受けて述べている「人格神」理解にも通じる。

<絶対他者としての神を信じるのに最も邪魔になるものは、「絶対他者なる神を求める人間の信仰心そのものだ」ということをエックハルトも言っています。なぜなら信仰心は人間の心であり、人間の心は相対的視点によるものだからです。相対的人間が絶対他者と言っても、それは事実上、相対的になります。絶対他者とはそんな水準のもののことではない、とマイスター・エックハルトは言います。しかしそのような絶対無としての神が、なぜ人格神と結びつくのでしょうか。そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇~一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち「無という『もの』(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ」(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。(中略)このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える「対象」ではなくて「それを生きるもの」であり、その意味で人格的であるほかはないのです。生きられた無ではなくて考えられた無は、無について人間が考える思考の対象です。それは人間によって「考えられた」対象として、対象論理的でして、したがってそれは人間の思考の対象として、絶対他者としての絶対無ではありません。絶対無は、無という対象、有の対極概念として、人間によって有と区別された無、いわゆる分別知による無ではなく、だからそれはただ生きられるものだ、と言われているのです。その意味で、絶対無は「ただ生きられるもの」です。そして生きられるものは、あえて言えば、人格です。>(~みずき教会説教「復活」)

小田垣氏が西谷啓治氏の本を読んで得たロジックはこうだ。絶対者なら客観的対象・客体ではあり得ない。それは他の客体と並ぶ相対者だからだ。となると絶対者は「(絶対)他者」とは言っても自分の外に「有」的に存在するものではないことになる。むしろ「無」という方が適切である。しかしそれは単純に神は無いということではなく、また自分自身が絶対者とか人格神ということでもない。ただ、外在しない絶対者たる人格神ということになると人の人格をもって「生きられ得る」ということになる。かくして「人格神=絶対他者=生きられ得る(絶対)無」といった観念連合が成り立つ。このような「絶対他者=人格神」理解は、上記のとおり佐藤研氏が「坐禅の体験知がキリスト教内部で展開すれば、ある『絶対人格』がどこか特別なところに実体として存在しており、それが人間を支配・制御しているというような観念的発想は、放棄されざるを得ないであろう。その代わり、『神』をわれわれの最深の本来性と等しい、空なる愛のエネルギーとして見るような理解が発生するであろう」といわれる、その「絶対人格」理解とも通じているのだろう。

八木氏によれば、(西谷氏および小田垣氏の言う)「生きられ得る無」とは要するに「はたらき」のことだという。「はたらき」には「はたらき」の主体、内容、伝達の三面が区別され、また、「はたらき」には「はたらきかけ」と、それを受けて実際に「はたらく」こととの両面があるとのこと。前者は「人格主義的言語」で、後者は「場所論的言語」で、比喩的に語られるとのこと(~私信)。

「人格神」とは謂わば「生きられる無(=絶対無)としての神」ということだが、逆に言えば、人が生き得ない「神」は「人格神」ではなく、人間の思考対象としての「(偶像)神」ということになる。だから遠藤周作氏にとっての「神」が、『沈黙』の主人公ロドリゴ神父を通して生きて語っていたとされる「神=イエス」のように、「だれか人を通して何かを通して働く」というのは、その「だれか」からすれば「神」を生きているということになる。念のために言うと、これは生き神信仰とは異なる。以前、ネット上に「ニュッサのグレゴリウス」と称する人がその名のとおり神秘主義的なサイトを出しておられたが、この管理人が「私を神が生きて下さる」といったことを述べていたのが印象的だ。

しかし、西谷氏や小田垣氏の「人格(神)」理解は、普通の聖書的神理解からすれば度過ぎているとしか思えない。あまりに厳密すぎる。語の定義にこだわっている。西谷啓治氏や小田垣雅也氏の説く理詰めの「絶対他者なる人格神」の問題点は、「他者」とは言われながらも実は波多野氏の言う「自我の内に吸収され解消される」観念であるということ。しかもそれを生ける神というか生き神のように言い放っていることだ。それが「生きられ得るのみの無」ということである。これは量氏においては「無的絶対者」ということで処理できるのだろう。すなわち、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(量義治著『宗教哲学入門』〔講談社学術文庫〕p190)さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(同書p292、293)と指摘されているからだ。

 

「神の遍在」ないしは「神の内在」についての批判的考察は本サイトの「要請される『神』」を参照。

聖書的に「人格神」について語るにはJWの理解が参考になる。JWは「神の遍在」も否定し、被造界に満ち満ちているのは「神」御自身ではなく「神の霊」であると明確に区別して認識している。

あるいは遍在を容認する場合も、金沢聖書バプテスト教会のサイトが参考になる。これを書いたのは牧師ではなく伝道師とのこと。

どの場所においても、神はおられますが、どの場所においても神が「近く」におられると言うことは、必ずしもできません。むしろ、どの場所においても、神は非常に「高い」ところにおられる方です。>(~「いずこにもおられる神」)

 

 

聖書では創造主なる神は「天」におられ、人間の外なる実体である。それが哲学的には不合理で神話にすぎないとしても、それは人知を超える啓示なのだからいいのだ。むしろ哲学的な厳密さにこだわる方が啓示の範囲を逸脱する「考え過ぎ」となる。無論、このようなことは「神」だけではなく「イエス・キリスト」にも適用されることになるが、それは「神」への信仰と矛盾することになるので、私はイエスについては啓示主義をとらない。なぜなら自分の中に、彼は「神」ではなく「ただの人」であるという前了解というか公理のようなものがあるからだ。そもそも私にとって「聖書」とはまずもって「旧約聖書」を指し「新約聖書」は参考的な意味しか持たない。つまり旧約啓示と矛盾しない範囲でのみ受け入れる。ただし、旧約啓示もユダヤ教などのような解釈は採らない。あくまでも新約聖書を参考にして福音的な解釈を施す。・・・ということで、イエス・キリストについては徹底的に非神話化して考える。これは考え過ぎではない。むしろイエスの神格化こそ、「神」への信仰の妨げとなり、克服すべきことなのだ。前述のとおり、私は<History>と<His Story>との二つの次元を区別する。前者、すなわち歴史的現実において、「キリスト(=メシア)」と呼ばれたナザレ人イエスは「神」の啓示などではない。啓示は、後者、すなわち神が聖書の物語を通して象徴的に示しておられる事にあり、それは各人の聖霊による解釈によって多様性を持つ。誰にとっても同じでなければならないわけではない。その啓示に基づいて実際に信仰生活を営む場が前者である。また私は、旧約聖書に「イエス=キリスト」預言を認める立場もとらない。しかも私の場合にはキリスト教のような共同体信仰の立場ではなく個人神信仰を前提とする実存主義的信仰の立場であるから、ますますそういうことになる。無論、個人主義であろうと実存主義であろうと、臨済宗妙心寺派の修行寺のように他人に迷惑をかけるような宗教すなわち倫理欠如の「己事究明」であってはならないのであり、「絶対他者」を信仰するからこそ「相対他者」への配慮がきいて然りなのだ。聖書が啓示する創造主は、言わば「相対的絶対者」であり、あくまでも「有」なる「生ける神」であって、「無」と言われるべき「絶対的絶対者」ではない。すなわち、小田垣氏のように人間が理詰めで認識できるような、「死せる神」たる「絶対者」などではない。いくら小田垣氏が「絶対―相対」の区別を突き詰めて、神を「(絶対)無」と表現したことを武藤一雄氏より早いとか言って自慢してみても意味は無い。聖書が啓示する神を「絶対他者」と言っても、神学での定義は(宗教)哲学での定義と同じ次元ではあり得ないはずだ。なぜなら神学には論理など超えた頌栄告白の面があるからだ。神学における「絶対他者」という言葉には理屈を超えた信仰告白表現としての意味があるのだ。これは哲学の立場からすれば独断的かも知れない。

滝沢克己氏の、「私の言うことは独断的にみえるでしょう。神は人間の意志とは全く独立だというのだから。しかしその独断に耐えなければ、ほんとうの討論などというものもね、人間にはできないです。」という有名な言葉にも通じるだろう。

聖書的に「神」について語られる場合の「人格」、神観や神理解としての「人格」の意味は、上記の八木氏の言葉のとおり「コミュニカント」である。これとは別に、宗教哲学的に「人格神」とは何か?を問うた場合の答えが「生きられる(絶対)無」ということであり、「神」を「(絶対)無」と表現することにもなる。この点では人格神は対象ではないという遠藤氏の考えは正しいことになる。しかし小田垣氏やその影響先である西谷氏ないしは西田幾多郎などの思想には「考え過ぎ」がある。実際に庶民が人生に要請する「神(信仰)」についての語りとしては、程々ラインをオーバーしている。「人格神観」と「擬人神観」とを区別することも学問的にはともかく、実際的には大した問題ではない。この擬人神観とか神人同形説の批判者として知られる哲学者はクセノファネスである。

<クセノファネスの思想で有名なのは、ギリシア神話、ホメロス、ヘシオドスに記述された「擬人化された神々」に対する徹底した否定である。
ホメロスとヘシオドスは人の世で破廉恥とされ非難の的とされるあらんかぎりのことを神々に行わせた/盗むこと、姦通すること、互いにだまし合うこと(断片11)。
しかしもし牛や馬やライオンが手を持っていたとしたら/あるいは手によって絵をかき/人間たちと同じような作品をつくりえたとしたら/馬たちは馬に似た神々の姿を、牛たちは牛に似た神々の姿をえがき/それぞれ自分たちの持つ姿と同じような身体をつくることだろう(断片15)。
エチオピア人たちは自分たちの神々が平たい鼻で色が黒いと主張し/トラキア人たちは自分たちの神々の目は青く髪が赤いと主張する(断片16)。

言うまでもなく、クセノファネスは「神の存在」を否定しているのではない。ただ、人間的な本質を「投影」された擬人的な神観念を批判しているのだ。このような考え方は、彼自身が、祖国=共同体の滅亡、離反という経験をし、ある種、コスモポリタンな流浪者(根無し草)となったことと無縁ではないだろう。>http://happy.ap.teacup.com/togenuki/635.html

クセノファネスの言説にも度過ぎたところがあるので次のような批判がなされている。「われわれが神的なものに人間的な性格を付与することなしには何も認識しえない時――そして現代の自然科学の精密な測定もまた、われわれがいかなるものについても純粋にそのもの自体を知ることができない時、まったく擬人的であり、そしてこのことは純粋に、そのもの自体が思想によっては到達されないものとして定義されるがゆえに、そうなのであるが――、その時、黒い肌をした神はエチオピア人の真の神であり、金髪の神は白人の真の神なのである。神の直接の模写としてクセノファネスの思想によって破壊されたものは、われわれの神への関係の表現として、われわれにもどってくる。実際に絶対的と考えられた神は相対的な像の中に帰ってくる。(中略)人間はただ人間からのみ考えることができ、われわれは相対的なものに対して抱く嫌悪を克服しなければならない。なぜならば、相対的なものの外には、われわれにとってただ無が存在するだけであり、絶対的なものはないからである。かくして、われわれがあらゆる人間的な経験から神をより詳細に規定することは、正しいのである。もちろん、それは、神をわれわれの言葉で直接に模写する思い上がりなしになされなければならない。遠い、まったく他なる神を主張する理論家たちもまた思い上がっているのであり、われわれは神と神についてのわれわれの思想とに交互に目を向けて、いわば比較によって、われわれが神からいかに近くあるいは遠くにいるかを確かめることができないので、そのような思い上がりは、ここに終りを告げるのである。このことによってすでにあらゆる神の超越性が破壊されると見えるわれわれの神概念の人間への連結が、神の超越性を実際は真っ先に根拠づけることができる、ということが暗示される。」(~クルト・フラシュ著「神の尺度としての人間」~ W・レーヴェニヒ、D・ゼレ他著/堀光男訳『現代における神』〔新教出版社〕p33~34)※この本の訳文には日本語として読みづらいところがある!

<「神の尺度としての人間」(Der Mensch als Mass Gottes)は、「神が人間の尺度である」ことと「人間が神の尺度である」こととの弁証法的な関係という重要な問題を扱っている。クセノファネス以来人間の神概念の相対性が指摘され、真の神は、人間に似た神々の像が破壊された後に、考えられている。しかしフラシュは、人間が神の尺度であるということを忘れてはならないと言う。それは、「神を肯定することは人間の価値を否定することではない」という意味であり、それは人間の勝手な観念を神の尺度にすることではなく、「われわれの精神的な自覚なしには、『神』という言葉はその意味を失うという意味である。人間は人間的にしか神を認識しえず、人間的なもの・相対的なものは、人間の神にたいする関係の表現であり、このような人間の立場を承認することによってのみ、人間は人間の立場の相対性を克服することができる、とフラシュは主張する。要するに、「人間は神の尺度である」ということがないと、「神が人間の尺度である」ということは成り立たない、というのが結論である。>(~前掲書「訳者あとがき」p171)

「人間の神概念の相対性が指摘され、真の神は、人間に似た神々の像が破壊された後に、考えられている」というのは、(広義の)神秘主義的神学の特徴とも言えるのではないかと思うが、そういう考え方だと祈りにおいて「神」をイメージすること自体、偶像礼拝扱いされる。なにせ「神」の対象性をいっさい否定するのだからお話にならない。度を過ぎている。信仰的に潔癖と言えば言えなくもない。かつて「ニュッサのグレゴリウス」というブログがあったが、その管理人などまさにこれで、けっして「神」の対象性を認めようとはしなかった。「(人格)神」を対象とすることは「非人格=物」のように客体化することだと考えるからだろう。その点は無教会派の量義治氏なども同様である(→御著書『無信仰の信仰―神なき時代をどう生きるか』〔ネスコ/文藝春秋〕など参照)。量氏と言えば『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)の中で次のように述べておられる。やはり(宗教)哲学には、そもそもがこのように実際的信仰から遊離した度過ぎた考えがあるのだ。

<仏教は西洋哲学的意味での有神論でもなければ、理神論でもなければ、汎神論でもなければ、万有在神論でもなければ、無神論でもない。しかし、それではいかなる意味においても、神論ないしは絶対者論ではないのかと言えば、けっしてそうではない。西洋的な絶対者論においては、従来絶対者というものが有的に考えられてきた。無神論といえども、絶対者というものを有的に考えた上で、そのような絶対者を否定しているにすぎない。仏教における空はもちろん有ではないけれども、絶対者であることに変わりはないのである。ヨーロッパでは、絶対者というと、すぐ実体とか存在として考えられてきた。われわれはこのような先入主から解放されなければならない。仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。空は「色即是空」または「空即是色」の空であり、それ自身としては無規定なる絶対者である。また、絶対無とは有無相対を絶したる無である。すなわち、絶対者としての無である。絶対者としての無とは無規定なる絶対者にほかならない。したがって、事態的には、絶対無は空にほかならない。前者は西田哲学の用語であり、後者は仏教の用語である。絶対無は空の哲学的表現である。空は命であり、リアリティである。 有的絶対者と無的絶対者 仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。これに対して、キリスト教およびイスラム教における絶対者は、さしあたり有的絶対者であると言って差し支えないであろう。ヤ

ヴェもアッラーも唯一にして、創造者なる、全知全能なる、生ける神である。もっともここで注意しておかなければならないことは、イスラム教は唯一神教であるが、キリスト教は、厳密に言えば、そうではない。キリスト教の神はたしかに唯一ではあるが、父と子と聖霊という三つの位格を有するのである。すなわち、三位一体の神である。三位一体というむずかしい問題を抱えているが、ともかく、キリスト教およびイスラム教の神すなわち絶対者は仏教の無的絶対者に対して、いちおう有的絶対者と称することができるであろう。ここで「いちおう」と言ったのは、すでに見たように、イスラム教のスーフィズムの場合には、絶対者アハドは絶対無にして絶対有である。また、たしかに、キリスト教の神はさしあたりは有的絶対者であると言って差し支えないが、後に見るように、単にそう言い切るわけにはいかないのである。それは、キリスト教の神が単なる唯一神ではなくて三一神であることと深く関わっている。神が単に有的であるならば、そのような神においては三位一体ということは成り立ちえないであろう。いま結論的なことだけを述べておくならば、キリスト教の神は絶対有即絶対無なる神なのである。いったい絶対者は有的なのか、それとも無的なのか、あるいは無的にして有的なのか、それとも有的にして無的なのか。>(p189~191)

絶対者は一者である 「絶対者」とは「対」を「絶」するものである。それに相対するものがないものである。相対するもの、すなわち、自らに対して相対者をもつものは絶対者とは言えない。こうして絶対者とはそれに並ぶものなき一者である。伝統的形而上学はこのような一者を「根源的存在者」または「最高存在者」または「存在者の中の存在者」または「最高の実在的存在者」または「必然的存在者」などと呼んできた。 絶対者の概念規定のパラダイム 絶対者にはいろいろのものがある。すなわち、有的絶対者または絶対有、無的絶対者または絶対無、絶対無にして絶対有、そして絶対有にして絶対無などである。これは有―無のパラダイム(典型)によって絶対者の概念を規定しようとするものである。これに対して、生―死のパラダイムによって絶対者の概念を規定しようとするものがある。パスカルの「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者の神でも、賢者の神でもなくて」という文言は絶対者を生―死のパラダイムによって規定しようとするものである。 有性と無性 絶対有の有性および絶対無の無性は相対的なものではなくて、絶対的なものである。すなわち、無性は単なる有性の欠如ではない。有性とは有規定性ということであり、無性とは無規定性ということである。無規定性は単なる有規定性の欠如ではない。言い換えれば、無規定性は未規定性ではない。したがってまた、有規定性も必然的なものであって、けっして偶然的なものではない。言い換えれば、有規定性は永遠的なものである。有規定性の規定は言語による規定である。そして、言語によってあるものをしかじかのものとして規定するということは、そのものを対象として規定することである。こうして、有規定性とは言語的・対象的規定性にほかならない。有的ということは、言語的・対象的ということなのである。これに対して、単なる有規定性の欠如ではないところの無規定性とは、単に消極的に言語的規定性ではないということではなくて、積極的に、非言語的な、すなわち霊性による非対象的な規定性なのである。こうして、無規定性とは霊性的・非対象的規定性にほかならない。無的ということは、霊性的・非対象的ということなのである。ここに、「有的―無的」または「言語的・対象的―霊性的・非対象的」というパラダイムが成り立つ。われわれはいちおう哲学的絶対者は有的・言語的絶対者であり、これに対して宗教的絶対者は無的・霊性的絶対者である、と言うことが許されるであろう。「哲学者の神」は有的絶対者である。これに対して、仏教的空およびスーフィズムのアハドは無的絶対者である。哲学的な有的絶対者すなわち絶対有は無とは関わりを持たない。そこでは、絶対有は単に絶対有なのである。しかし、宗教的な無的絶対者すなわち絶対無は、後に見るように、同時に絶対有でもある。ところで、絶対無が絶対有になりえても、絶対有は絶対無にはなりえぬものなのであろうか。けっしてそうではない。キリスト教の三位一体の神は絶対有にして絶対無なのである。>(p217~219)

<仏教とくに禅を基盤にして絶対無の哲学を展開したのは西田幾多郎である。難解はあるが、その絶対者観を省察することにしよう。(中略)それでは「真の絶対」とはいかなるものなのか。西田は言う、「絶対は、無に対することによって、真の絶対であるのである。絶対の無に対することによつて絶対の有であるのである」と。>(p223~)

<多くの場合、無神論の絶対者観は絶対者は絶対有である、というものである。たしかに、従来、西洋においては神は絶対有であると考えられてきた。無神論はこのような絶対有としての神を否定してきた。神を絶対有として主張するのが有神論であるとすれば、有神論対無神論という構図も成り立ちえよう。しかしいまや、絶対者は単なる絶対有ではなくて、同時に絶対無であることが明らかになった。絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。神が単に絶対有であるならば、いかにしても三位一体論は成立しえない。(中略)絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもあるのである。言い換えれば、単なる超越神でも単なる内在神でもない、ということである。(中略)神が絶対有にして絶対無であるということは、旧約聖書の義の神と新約聖書の愛の神とが同一の神であることを意味する。そして、この同一の神においては、義の審きと愛の赦しとが一つなのである。絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。我 ― 汝の関係という人格的関係は契約と律法を介して成り立つ。>(p292~293)

 

量氏は、西田哲学に依拠して「哲学の神」を批判しているが、そもそも「絶対有」だの「絶対無」だのといった概念で聖書が示す「神」を論じること自体に問題がある。聖書が示す「神」(=ヤハウェ)は、絶対者と言われるが、「単なる絶対有」かどうかは解釈の問題であり、そもそも「有」と「無」の区別など無用であって、すべてを包括しておられる絶対者なる人格神・・・でいいのだ。あまり理屈っぽくなると、結局、量氏のように聖書的根拠を示さずに「三位一体」ドグマに合わせるような屁理屈をこねることになる。論理的な「絶対」は現実の「絶対」とは異なるという自覚も見えない。つまり「絶対」という概念は「相対」という概念との相対性を免れ得ないのだから、いかに「絶対有にして絶対無」などと言ってみたところで、「相対有にして相対無」により相対化されるのだから、厳密には「絶対」とは言えないのだ。だから「神」を概念規定すること自体、無駄であるし、所謂「絶対者」といった表現は論理的な意味ではなく、あくまで信仰上の賛美表現とみなして然りだ。だからべつに聖書が示す神が「絶対無」である必要はなく、「三位一体」でなければならないわけでもない。「有」も「無」もなく「絶対者」である聖書の「神(=YHWH)」が無限・無制約の存在であると言っても何ら問題ないし、聖書的には、キリスト教会組織が教義に定めた「三位一体」でなくても何ら問題ないのだ。とにかく量氏の「宗教哲学」は、西田哲学的概念で聖書が示す生きる神を規定しようとしているような感じが強い。「はじめに三位一体の神ありき」の筋立ても疑問。

ところで、西谷啓治氏や小田垣雅也氏の「生きられ得る無」という絶対他者・人格神観に欠如しているのはまさに超越性である。遠藤周作の「沈黙」の主人公・ロゴリゴ神父のような個人を通してはたらき生きる主体的「神」は「内在」性に偏っており「超越」性が欠如している。真に絶対他者なる神は、人の実存の外から働きかける。

それはともかく、「旧約聖書の義の神と新約聖書の愛の神」という区別が問題である。両者が同一と言われてはいるが単純である。預言者は審きだけではなく「神」の贖いや慈愛をも語っている(イザヤ41:9~10、44:21~22他)。そもそも新約聖書は旧約聖書のように「神=ヤハウェ=イエスの父」が前面に出てきて行動するわけでもなく、また、その「神」についての詩的信仰告白が随所に書かれているわけでもない。それでもイエスの「子」としての「父」に対する言葉や態度から間接的に「神の愛」だけではなく「神の義」も知られるのだ。だから旧約聖書においても「神」は「愛の神」だし、新約聖書においても「神」は「義の神」なのだ。

また、その前の引用文に、「われわれはいちおう哲学的絶対者は有的・言語的絶対者であり、これに対して宗教的絶対者は無的・霊性的絶対者である、と言うことが許されるであろう」とあるが、聖書(特に旧約)が啓示する創造主なる「絶対者=神」は、「無的・霊性的」というよりも「有的・言語的」なのではないか?否、そもそも量氏の、この「無的・霊性的」と「有的・言語的」という区別自体が問われるが、少なくともヤハウィストの神観ないしは表現は擬人的であると言われるように、「有―無」の区別で言えば「有」的であろう。これも解釈によって理解の違いが生じることだろう。

いずれにせよ、おおよそ、度過ぎた思想は何かの反動によって生じるものだ。私の「程々」の考え方に対しては、上で引用した西谷啓治氏および小田垣雅也氏の思想が異を唱えることになるだろう。日本では西田哲学系の宗哲思想ほど「度過ぎた神論」は見当たらない。何に対する反動かは知らないが、おそらくキリスト教神学と無関係ではないだろう。クセノファネスの場合はギリシャ神話を題材にした擬人的な神々の物語だったのだろう。クセノファネスの「ヘンカイパン(henkaipan)」が汎神論にあたるのか汎在神論にあたるのかはわからないが、擬人神観を排しながらも唯一の神にこだわった感性は尊敬できる。しかし私は上記の「程々」の考え方を支持し、人間が「神」との質的差異・断絶を自覚した上で類比的に「神」を思うことは実際的な意義があると思う。なぜなら多くの庶民にとって祈りにおいては信仰対象をイメージする必要があるからだ。「神」をイメージすることには擬人化も含まれる。これを「偶像化」と混同するのは行き過ぎになる。 

もちろん「神」をイメージせずとも信仰することは可能であろう。偶像禁止ということに潔癖にこだわるのなら、それに越したことはないのかもしれない。しかしそれが庶民生活において実際的な神信仰たり得るかは別問題である。それはともかく、息念忘慮 仏自現前」的に言えば、「神」が「人格・対象」か「非人格・非対象か」などといった「思念」や「思慮」を放り止めることによって自分の心の中に「仏自現前」ならぬ「神自現前」が生じてくる。そこに理屈抜きの実存的信仰が成立する。だからこれは「外に仏を求め」るように外に神を求めることではない。むしろ「内に神を求め」ることだと言う方が表現として適している。無論、この「内」とは存在論的な「内部」といった意味ではなく対自的ということであり、対他的次元での普遍性や客観性を基準とする外的評価に左右されないという意味。すなわち実存であり、信仰生活の中心であり対神関係の意識である祈りについての実際問題は「神」を人間との(存在の)類比でイメージするかどうかである。無論それは上記引用の「自分のイメージで想定して求めても、いつまでたってもどれだけ努力しても、それをつかむことはできない。」という限界を自覚した上でのことである。人としての限界はあっても「神」との関係において出来る限りの対象性を得ようとすることは、けっして間違いだとは思わない。ただ、八木氏が言うように、「人格」という言葉にとらわれてはならないということだ。同様に「はたらき」とか「場所」とかの「非人格」的な言葉にもとらわれる必要は無い。何より聖書に基づく神信仰だからこそ、旧約聖書における、特に「神人同型的、人間的」ともいわれる「神」(~本多峰子さんの論文「ヤハウィストの神 ー 旧約聖書のはじめの神観」http://www8.plala.or.jp/mihonda/Yahwist.htm)のイメージの影響を受けていても何らおかしなことではない。インテリの中にはそのような影響を神話的だとみなして自己批判的にとらえ直す人もいるだろうが、必ずしも誰もが非神話化したり合理化しなければ、神信仰として稚拙であるとか非現実的だとか決めつけることは出来ない。各人のレベルに応じて、その個別の対神関係において決まってくることであり、万事は生ける神の一存に帰する。イメージは庶民の信仰において不可欠であることは聖像聖画などからわかる。偶像礼拝と紙一重といった面もあろう。しかしイスラム原理主義のように厳密すぎると庶民の実際の生活から乖離してしまう。庶民的信仰においては理屈抜きに、切実な要求があり情緒的な要素もあって、「神」は「(絶対)有」として感じ、またそう自覚することが普通なのだ。そして「神」は人間が生き得るようなものではなく、人間を超えて、人間の外から働きかける超越的存在というイメージの方が、日本のような汎神的多神教的伝統のある社会においても一般的になりつつあるだろう。そういう感覚は「絶対他力」の阿弥陀仏信仰の普及とも関係があるように思われる。

 

愛なき宗教に意味はなく、倫理を伴わない宗教体験ではリアリティーを欠く。人格主義的神観は倫理を伴うが、場所論的神観は倫理を伴わない・・・と一概に言いきることは出来ないだろう。ただ傾向としてはそう言えると思う。なぜなら人格主義的神観は「神」が「他者」になり、それがイエス・キリストを介する「神」である限り、おのずと「人」としての「他者」にも対することになるからだ。しかしこの人格主義的神観には短所もあり、他者に対して愛をもって関わる場合もあれば、逆に憎悪をもって関わる場合もある。こうした両面性は旧約聖書の「神=ヤハウェ」の人間に対するあり様を見ればわかる。言わば、場所論(すなわち非対象的・力動的)神観はゼロであり、人格主義的神観はプラスもあるがマイナスもあるといった感じ。この中間をとるためには、旧約神観の原点に帰る必要がある。すなわち神名ヤハウェの語源は動詞「ハーヤー」であり、未完了の「エフイェ」(=私はある、なる)であるということ。有賀鐵太郎氏の指摘では、ここで「私」という人称は未完了動詞の接頭辞「エ」にかろうじて示されているだけで、ヘブライ的神観はそもそも人格主義が強く出されているわけではない(ただしこの箇所はエロヒスト資料〔E〕。人格主義的(と言うか擬人的)神観の強調は、上記のヤハウィスト資料〔J〕の特徴であり、Eより1世紀ほど古いとされている)。

 (参照) http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/night-tale/025.htm

 

「神」は「意識」の次元での「人格」的な信仰「対象」であり、同時に「無意識」の次元での「はたらき」で「非対象=自覚」あり、その「二重性」に於いて存在している。と言っても、J・ベリング著『The Belief Instinct』(邦題:「ヒトはなぜ神を信じるのか  信仰する本能」鈴木光太郎訳)における、進化論的意味での「適応的錯覚」としての「神」、すなわち脳の本能的はたらきとして身体に内在する「神」ではない。その神理解も仮説であり相対的であって私の採用するところではない。脳のはたらきはあくまでも対神関係の媒体として用いられるにすぎず、そこに「神」の存在が解消されることは非現実的である。なお、この本の中に引用されているヴォルテールの「もし神が存在しなかったら、神を発明する必要がある」は、私なりの言い方に変えれば「もし神に対する信仰心が人間になかったら、その神信仰を発明する必要がある」となる(単に、神の存在を信じるだけでは信仰とは言えないという神学的理屈もあるがここでは無視)。「神(信仰)」は死の恐怖の軽減に役立つので必要とする人が少なくないだろう。「神(信仰)」の要請・必要性は、もっと抽象的に人生の意味付けといった動機もあるだろう。要するに人は「(虚)無」に耐えられない、「有」を求める志向性があるということ。死の恐怖の軽減に関しては、旧約聖書からは厳父のイメージが強い父なる神では天国行きを保障してくれないので、執り成し役として愛のキリストが子なる神として、さらにはマリアが聖母として要請されたのであろう。それはともかく、カントの要請的信仰は人間中心的で実存論的とも言えるが、カルヴィニズムの神中心の信仰論では、「ヒトはなぜ神を信じるのか」の答えとしては、神が選んだ者は必然的に信じるようにされているからといった決定論的なかたちしかなく、人間側からの神信仰の必要性という現実を無視することになる。人間の神信仰は人間の側(意識)からと神の側(無意識)からとの両方向を捉えなければならない。これに関しては、遠藤周作氏が「仏教の唯識論では、この無意識を阿頼耶識とよび、(中略)この無意識の奥にまた何かあるかもしれない、それがキリスト教でいう魂、神の働くところであって(中略)仏が働いたり、キリストが働くのは、意識の世界ではなく、この心の奥底なのだな、働く場所はそこなんだな、と感じてきました。意識よりも、そこの部分のほうで神や仏は人間をつかむんじゃないかな、と考えるようになったのです。」(『私にとって神とは』〔光文社.単行本〕p28~29)ということについも、結局、「神」を人間の脳のはたらき、すなわち身体に内在するものとみなすことになるのではないか?という疑問が残る。「意識の世界ではなく、この心の奥底」 と言ったって、そこもまた「脳」のはたらきであり、身体の内部に変わりはないだろう。それとも「集合的無意識」のように個別的次元を超えた普遍的次元があると断定できるのだろうか?それもまた仮説にすぎないであろう。

実存的信仰は、自分の前に現前する「神」(詩篇16:8他参照)を対外的に定義して説明し、受容させようとする教義中心の教化主義的姿勢を放棄し、そうは言っても対人関係なしの対神関係というのはあり得ないから、せいぜい控えめな(つまり自己絶対化の表現を厳に戒めた)「証し」程度にして、おもに対内的に「神」を信仰する。そこでは「思慮、思念」とか「イメージ」の有無を含めて論じる必要自体がなくなる。その意味では、西村氏のお言葉は布教者としてのお立場の故だろうが、まだ対外的・説明的な印象を受ける。私としては、実存的信仰の聖書的モデルをコヘレトに見出す。ところで、神信仰をもたない人々は、なぜ「神」などをそんなに言うのか?何の意味があるのか?「神」のどこがいいのか?などと疑問に思うことだろう。これに対して私の答えは一つ、自分ないしは被造物の、生命のアルファとオメガを支配している存在だからということだ。つまり我々がそこから来てそこへ行くというところの根源だからである。

「塵はもと通りに地に戻り、霊はこれを与えた神に戻る。」(コヘレト12:7)

この根源への関心なくして、人はただ流れに漂う浮草のようなものである。自分の「造り主」(12:1)として固有名の「ヤハウェ」ではなく「神(エロヒーム)」との関係に生きるコヘレトは、災いも造り出されたものだと諦観し(7:14~15)、「過ぎない」(7:16~17)で生きる人生の知恵を教える教師である。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」(論語)というが、考え過ぎも真理に及ばないと言えるだろう。その意味で「考え過ぎない神信仰」が要請される。それは必要最低限度の要件を「聖書啓示」に置くものであり、聖書と無関係な「神」・・・すなわち日本の神道における「神」やヒンズー教その他の「神」は関係ない。あくまでも「聖書に示された神」を信仰する者としての実存的信仰であり証言である。この場合の「証言」とは、他者への同意~同信を目的とする「説明」ないしは「布教・宣教」とは異なり、他者が同意しようがしまいが少なくとも自分自身はこうだという表明である。それは人間が他者との関係を抜きにしてはあり得ないことの反映でもある。つまり他者に対して閉鎖的な対神信仰などは不健全であり、偶像崇拝に陥る恐れがあるということだ。

「考え過ぎない神信仰」において「神」は「内なる神」とも言われる。しかしその「内なる」という意味は自分の中に存在するということではない。したがって、下のリンク先(2)に書かれている、「人間の外部に存在すると思われている神というのは、人間の無意識の中に存在する種板としての神が、人間の外部に幻像として投影されたものにすぎない。」との見解には同意できない。「内なる神」は、「教会の信条・教義における神」として客体化された「外なる神」とは異なり、共同的信仰の対象として固定化された「神」ではなく、所謂「自分自身の神」・「個人神」として常に自分自身が関係を持つ「神」である。

 

<自分自身の神の「発明」は、おそらくルター革命のまさに核心だったといえるだろう。彼こそは、個人と神を直接対面させることによって、「一人の」神と「自分自身の」神との結びつきの中に主体的信仰の自由の根拠を求め、教会の正統主義に反旗を翻すという「考えも及ばぬこと」「とてつもないこと」、すなわち「異端」を作り出すことに成功した人物だった。(中略)「自分自身の神」のどこに「独自性」があるのか。第一に挙げられるのは、個人が伝統的教会への結びつきとその権威から解放されている点だ。(中略)なぜ、ルターは自分自身の神の主観性と普遍主義を結び合わせることができたのか。それは彼が、テキストの直接性と神の直接性が一体化している神の啓示行為に依拠していたからだ。(中略)個人化された神と普遍的な神の矛盾を解決するために、ルターは歴史的妥協を余儀なくされた。しかし、この妥協は内在的にも制度的支柱を必要としていた。(中略)信仰の個別化と宗教的結合の両方を制度的に実践するための象徴的様式が告解にほかならない(中略)ジョン・ロックがその著書『寛容についての書簡』(1689)で提示した答えは、プロテスタント的信念に基づくものだった。真の宗教は内面的なものであり、その拠って立つ基盤は信仰であり、信念だ。なぜなら主体の信仰主権こそは、宗教および教会のアイデンティティを支える基本的土台だからだ。逆に外面的な行動様式やその帰結などは、そうした土台にはなりえない。やや乱暴にいえば、ロックの寛容原則とは「君の好きなものを信じなさい、ただしそれによって他者に迷惑をかけてはならない」というものだ。>(ウルリッヒ・ベック著、鈴木直訳『<私>だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』〔岩波書店〕p172

 

<ベックは本書の各所で、信仰の個人化は信仰の私人化と混同されてはならず、個人化された信仰が新たな公共的役割を担うことは十分にありうると述べている。では、個人化を私人化から区別する試金石はいったい何だろうか。それはエティの日記が証言しているように、「自分自身の神」がどこまで自分の自由にはならない独立した、傷つきやすい他者性を備えているかという点であると筆者は考える。そこがベックの言う、自分をいくらでも甘やかしてくれる「愛の自動販売機」や、自分がいくらでも甘やかすことのできる「ぬいぐるみの神」との決定的違いである。>(同掲書p319)

 

※「個人神」については以下を参照。但し、私が上記の実存的信仰の対象として述べている「神」、コヘレト的「神観」は、ベックの言う「自分自身の神」や、下のリンク先で論じられている「個人神」とは同じではない。

 

  (1)http://www.cismor.jp/jp/lectures/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E7%A5%9E%E3%82%92%E9%80%9A%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99/

 

(2)http://ontology.tutorial.jp/2008/08/deity.htm

 

 

 

 

  (2)神は全て(パンタ)である

 

「神は本当に地上にお住みになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることができません。私が建てたこの神殿などなおさらです。」(列王記上8:27 池田裕訳)

「世界とその中の万物とを造られた神は、天地の主なのですから、手で造られた神殿などには住まわれません。(中略)実際に、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。われわれは神のうちに生き、動き、存在するのですから。」(使徒行伝17:24~28 荒井献訳)※「世界」と訳されているのは「コスモス」で「宇宙」とも訳せる。また、「その中の万物(を)」は「その中の全てのものを」と訳す方がいい。原文は「パンタ タ エン アウトー」で「パンタ」は「パース」(全て)の〔ここでは〕中性複数対格。中性複数主格として「神」を「全て(パンタ)」と表現することがある。上記の場合は「全てのもの」だから「被造物」であり、これを「神」とみなせば汎神論になってしまう。まだマシなのは汎在神論。

「神が全てにおいて全てとなる(エー ホ セオス (タ) パンタ エン パーシン」(Ⅰコリ15:28)

「われわれは神のうちに生き」は「エン アウトー ガル ゾーメン カイ」。「神」は「彼」(「アウトー」は「アウトス」の男性・中性単数与格)。「エン」は位格と「~(の中)に」を意味する。「ガル」は文末で「~ですから」と訳されているが「なぜなら」。「ゾーメン」で「われわれは生きる」。「ザオー」(生き〔てい〕る)の現在直説・接続法1人称複数。「カイ」は接続詞で、「生き」の「き」。

「動き、存在する」は「キヌーメサ カイ エスメン」。「カイ」は接続詞で「動き」の「き」。「キヌーメサ」は「キネオー」(動かす)の1人称複数受動態。「エスメン」は「エイミ」(存在する)の1人称複数。

 

使徒パウロのアテネ宣教は失敗に終わったとも云われるが、行伝17:34に「しかし、数人の者は彼に帰依し、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判人ディオニュシオスや、ダマリスという女性やその他の人々がいた。」とある。ここに出てくる改宗者「ディオニュシオス」という人物の名が5~6世紀の新プラトン主義的著作に使われており、著者が「ディオニュシオス」の名を騙っているところから「偽書」の「偽」を付けて「偽ディオニュシオス・アレオパギテース」と呼ばれる。しかし「偽」が付くからといってつまらない著作というわけではなく、むしろこの著者の神観は現代神学でも究極的神観とみなされる所謂「panentheism」(「万有在神論」とか「汎在神論」とか訳される)として興味深い。

「神」は「すべてである」と同時に「いかなるものでもない」。「すべてである」を「すべてのものである」と言うと、ちょっと違うかな~と感じてられてくる(この点、参考書の『新プラトン主義を学ぶ人のために』〔世界思想社〕では区別がされていない〔294頁参照〕)。「神はすべてのものである」は「汎神論」(または汎神教)だが「神はすべてである」は「全神論」とでも言える。そしてそれは「神はいかなるものでもない」という命題と矛盾しないので、ここでは逆説は成り立たない。「すべて=いかなるもの」ではなく、「すべて≠いかなるもの」だからである。アリストテレスは「全体は部分の総和にまさる」と言ったそうだが、私にとって「全=すべて」は「汎=万有・万物=いかなるもの」(=部分の総和)以上なのだ。ちなみにアリストテレスにとっての「神」は「動かす神」ではあっても「造る神」ではなかった。それ故、プラトンの「イデア」論を認めなかったと云う。

上記のように、「神はすべてである」ということと「神はいかなるものでもない」ということは矛盾しないので逆説にならないが、「神はすべてのものである」ということと「神はいかなるものでもない」ということは矛盾するので逆説になり得る。しかし私は、これが「神」を示す「逆説」になるとは思えない。というのは、後述のとおり私は「神がすべてである」は「無限大(∞)」という意味で認めるが、「神がすべてのものである」は(「無限小」という概念はないから)「極小」化することになるので認められないからだ。極小とは、物理的アナロジーとしては最小の素粒子よりも小さいことを意味する。そうでなければ「万物」に宿ることはできない。万物に宿れないなら「すべてである」とは言えない・・・というか、「神」は宿らない。宿るのは「神の霊」である。

 

以下は紀元5世紀のダマスキオスという人物の「三種の原理(トリアス)」という考えだ。

<(1)「一にして全体」(ヘン・パンタ)というのは、それ自体としては「一」であるが、多を生み出すものであるという点では「全体」であるもののことをいう。(2)「全体にして一」(パンタ・ヘン)というのは、それ自体としては純然たる多であるけれども、別の見方からすれば「一」であるもののことをいう。「別の見方」というのは、他のものにとって多であることの原因であるということは、そのものはそれ自体としては「一」であるということである。(3)今述べた二つの原理から最初に生じるところの第三のものが「一になったもの」(ト・ヘーノーメノン)である。これは一と多との両方の関係を集約したものであるから、それ自身の本性のなかにあらゆる対立関係を解消してしまう。

右の三種の原理よりも上位に一者が、さらに上位に究極の原理がある。そして、上位の原理と下位の原理の関係は原因と結果のそれに匹敵するのに対して、(1)・(2)・(3)どうしの関係は、同じ位にあるものの関係であるから因果のそれではない。>(『新・プラトン主義を学ぶ人のために』〔世界思想社〕p239)※「原理」はギリシャ語「アルケー」の訳語とされているが(p235)、ラテン語では「principium」の訳語とされている(p238)。

 

「すべてのもの(万物)」は「神」自体ではなく「神」を「因」として循環するものである。すなわち、「神」から出て(形相因)、「神」により(質量因)、「神」へと向かう(目的因)のです(ローマ11:36.Ⅰコリ8:6参照)。「万物は流転する(パンタ・レイ)」(ヘラクレイトス)・・・・形而上学的思弁は大概にしなければならないが、こと「神」に関する思索とはそういうものであることは確かであり、形而上学的な面がない「神」論など無味乾燥とでも言うしかない。八木雄二氏によると「形而上学」とは古代において意識された超感覚の目に見えない上位世界を対象とした学問であり、中世においてその「形而上学」に創造神とキリスト教信仰が加わってできたものが「神学」(=近代人の呼称は「スコラ(学校)哲学」)とのこと。

 

それでは「神」とは何か?を考察するにあたって第一の問題は「創造」である。「無からの創造」と言っても伝統的な外部からの創造論では「偏在」と矛盾する。より論理的整合性があるのはモルトマンがカバラ思想を援用して説いている「神」の自己限定としての収縮的創造論である。ただし私は「収縮」という概念は使わない。なぜなら、原初は「神」が全体であって、その全体が「収縮」したって全体の大きさが変わるだけで、そこに「神」とは異なる「空間」というか「場」が生じるわけではなく、むしろ「神」の中に「神」と異なる物が生起し存在すると考える方が自然だからである。しかしこういうことこそ考え過ぎると聖書とは関係ない話に陥ってしまう。だからこの点は程々にしなければならない。ちなみに「三位一体の神」とは「父、子、聖霊」の三位間の循環運動であり動的存在なので「神の存在は生成において在る」(ユンゲル)といわれる。ヤハ神は語源的には「ハーヤー」および「エフイェ」という動詞で表される神である。「生ける神」、「受肉した神」とはこのようなダイナミックな神だと言いたいのだろうが、そもそも「受肉」など聖書の中での神の物語(HIS STORY)であり史実(HISTORY)と認めない者にとっては副次的な事柄である。

 

そんなことはともかく、私は「神」の存在論的証明として古典的な「神はそれより大きなものが考えられないほど大きな存在(Aliquid quo nihil maius cogitari possit )」(~アンセルムス著『プロスロギオン』)という命題は依然として有効だと思う。無論「証明」としてではなく、基本的な「神観」としてである。māius(マイユス)は形容詞māior「より大きい」の中性形だから、もっともここで言う「大きい」というのは「偉大」とも訳せる。「それより〔偉〕大なものが何も考え得ない何か」という意味にも解される。つまりここでの「大」とは、物体に対するサイズとかスケールのことではなく人格にたい対するする「偉大」という質的な意味だと。「大きさ」は比喩であり、だから「偉大」という言葉にすでに「大」が含まれているとおり、「偉い」ことは「大きさ」の比喩では「大」に喩えられても「小」には喩えられない。偶像的とも言われそうだが、世の中、偉大と感じられるものは富士山のように大きいのだ。だから比喩の意味で、ヨハネ14:28のイエスの言葉、「父は私よりも大いなる方」(小林稔訳)、「父がわたしより大きいかた」(口語訳)の「大いなる、大きい」という言葉を自分はサイズ・スケールが大きいという意味でも受け取る。これは「メイゾーン」で「メガス」(大きい)の比較級(より大きい、より偉大な)。13:16との関連でみればサイズ的意味の「大」ではなく、RSVの「 the Father is greater than I 」のとおり「偉大」という意味にとるべきではあろうが、私は実存的にあえてサイズ的、スケール的意味も併せて受け取る。

ニコラウス・クザーヌスの「絶対的に最大なもの」(~『知ある無知』)の「最大」もまた然りだ。「神」は物体でないことは言うまでもないが、比喩・類比としては「小」よりも「大」なるお方だし、いかなる意味においても「体」が無いわけではない。「得体の知れない」存在ではなく「名は体を現わす」と云うとおり神名「YHWH」が実体を現わしている。・・・これではまだ形而上的思弁を脱しきれていない。

 

以下の引用文も、哲学的には正しいかも知れないが神学的には必ずしも正しいとは言えない。哲学の命題は論理的・語義的厳密さを旨とするが、神学の命題には信仰告白としての意味もあり、必ずしも厳密さを旨とはしないから。

 

(ここ↓から引用開始)

 

 

神と人間

 


多くの宗教が神についてさまざまな観念を生み出してきました。あるいは、神についてのさまざまな説明をつくり出してきました。それにより、人はそれぞれ神について異なった考えを持っています。最近では、このように「神」という言葉に特定の宗教に付随した観念がまつわりつくのを嫌って、「ワンネス(全一であること)」、「大いなる一」、「大いなる存在」、「大いなるすべて」などと新しい呼び方をする人たちも増えています。けれども、どんなに言葉を新しくしても、いずれそれらの言葉も手垢がついて汚染されて行くことは眼に見えています。必要なことは言葉を取り替えることではなく、私たちの意識を変えることです。神というのは人間が実際に体験することのできる現実であって、人間が生み出した単なる観念ではないということを理解し、絶えず実際に神を体験することを心がけることです。そのような意味で、本書ではあえて古くから使われている「神」という言葉を使いつづけることとします。

ジョエル・ゴールドスミスという人は、「神について人間が抱く観念はすべて誤りである。なぜなら神はすべての観念を超えているからである。」といいました(ジョエル・ゴールドスミス、神を識る瞑想の法、服部比佐治訳、教文館)。神について正しい観念というものはありません。神についての正しい説明も正しい定義も不可能です。けれども人間が神との関わりを持とうとするなら、神についてまったく観念を持たないわけには行きません。それは私たち人間の意識と行動の方向付けをするために必要なのです。何も観念を持たなかったら方向付けができません。神に近づくことも遠ざかることもできなくなってしまいます。神に関する観念というのは地図のようなものです。目的地に着いてしまえば地図はいらなくなります。同じように、人間が神とのつながりを確立してしまえば神についての観念は不必要ですが、それまでは神の観念を必要とするのです。

「神はすべての観念を超えている」というのは、神についてどんな観念を持とうとも、それは神とは関係がないということです。神についてどんなに誤った観念を持っていても、本当に神との接触を得たときには、それらの観念は自動的に修正されて行きます。したがってある意味では、神についてどんな観念を持っていても心配しなくていいのです。けれども、神の本当の姿からあまりにもかけ離れた観念を持っていると神に近づくのに妨げになります。また、実際に神に触れたときのショックが大きくなりすぎます。したがって、できるだけ神に近づくのに邪魔にならない、むしろ神との接触を助けてくれるような観念を持つことが望ましいのです。

以下に述べるのは、私が最も適切であると考える神についての観念です。あなたの持つ観念がこれとまったく同一である必要はありません。神について正しい観念はないと知りつつ、これと類似の観念を持ってください。そして、観念にこだわるのはほどほどにしておいて、実際に神との接触を得るにはどうしたらよいのか、という方に注意を向けてください。

神は存在の根源です。存在するすべてです。存在そのものです。神以外には何ものも存在しません。神は純粋の意識です。したがって存在するのに時間も空間も必要としません。時間や空間は、私たち人間の心の中にある幻想に過ぎません。神はどこにいるかとか、神はいつから存在するかというような質問は無意味です。神には大きさも形もありません。形のあるものにはかならず外側があります。けれども神以外には存在するものはないのですから、神の外側というのはありません。したがって神には形がありません。神はただ存在するだけです。存在とは何かと問うのも無意味です。神が存在なのです存在という言葉は人間にとって最も根源的な言葉です。ですからここで使うのです。神が定義できないように、存在も定義できません。定義するためには他の言葉を必要とするからです。定義はできなくても、人間は存在という言葉を直感的に理解します。それで十分です。「神以外には存在するものは何もない」ということだけ覚えてください。

神には如何なる性質もありません。したがって、神を「これこれのものである」と記述することはできません。神は「無」です。なぜなら、神の中ではあらゆる性質が溶け合っているからです。神以外には何も存在しないのですから、逆にいえば存在するものはすべて神の一部です。したがって神の中にはあらゆる性質が含まれています。神の中にあるのは、人間が善いと思うものばかりではありません。善と悪、光と闇、生と死、愛と憎しみ、怒りとゆるし、その他ありとあらゆるものが神の中に存在しています。プラスの電気とマイナスの電気を一つにすれば、打ち消しあって消滅してしまいます。それと同じように、神の中にはありとあらゆるものが溶け合っている結果、すべての性質が打ち消しあって「無」になっているのです。それは現代の物理学が解明した「真空」に似ています。真空は何もない空間に見えますが、そこからプラスの電気を持った粒子と、マイナスの電気を持った粒子が同時に発生します。これを対発生(ついはっせい)といいます。ゼロがプラスとマイナスに分かれることによって、両方が認識されるようになるのです。けれども二つあわせるとゼロであるということには変わりがありませんから、二つの粒子がぶつかれば、それらは互いに打ち消しあってまたもとの真空に戻って行きます。神も同じです。神の中ではあらゆる性質が打ち消しあって無になっているのですから、そこからあらゆるものが対発生してきます。善と悪、光と闇、喜びと悲しみ、あらゆるものが生み出されてきます。神は無限の多様性を生み出す「無」なのです。

神は純粋の意識です。したがって存在するものは意識だけです。神の中で溶け合って無になっているあらゆる性質は、神の意識の中にあります。それが認識されない間は無です。けれども神が自分の意識の中に光を認識したとき、光と闇が対発生します。なぜなら光を認識するということは、光でないものを認識することと同じだからです。これが神の創造です。創造されたものは神の意識の中にあります。私たちは神でないものがたくさん存在していると思われる世界に住んでいます。かえって神の方がどこに存在するのかわからないと思っています。それは、神によって創造されたものはすべて神の意識の中にあるからです。大きな建物の中にいれば建物の姿は見えないように、神の意識の中からは神の姿は見えません。神の外側というのはありませんから、「神がそこにいる」というような形で神を認識することは決してできないのです。


(ここまで↑で引用終わり)

http://members.jcom.home.ne.jp/dawn-watcher/index.html

 

 

このような「ニューエイジ」的神学では聖書が啓示している「人格神」を正しく認識し理解することは出来ない。その点では上記のとおり、JWの方がはるかに正当性を持つ、と私は実感する。

問題は聖書の啓示といった場合、その内容には個人の信仰の面だけではなく共同体としての信仰の面があるので、それと「個人神」信仰を前提とする実存主義神学の立場とが矛盾しないのか?という問題である。私の「個人神」信仰の立場においては、「信仰共同体=エクレシア」の意義は後退する。しかしこれも啓示の要素であり、解釈によって閑却し得るものではない。JWは信仰共同体ではあるが、その組織のあり方についてはカルトといわれる問題性がある。そこがJWの最大の難点である。

 

一方、神の存在証明では、デカルトの考え方が特に興味深い。<デカルトは「省察」の中で、神の存在証明の議論を詳細に展開している。それは私の意識から出発するア・ポステリオリな存在証明と、神の概念そのものから帰結するア・プリオリな存在証明とからなっている。

 

神の存在についてのア・ポステリオリな証明は次のようなものである。私の観念のうちには、生得のもの、教えられたもの、自分で作ったものの三種類がある。ところで私の観念のなかで第一のものは神というものの観念である。そこでこの観念がどこから来たのかが問題になる。私は自分の存在について生得的に観念を持ち、また私以外のさまざまな事物については、これを学び教えられることによって観念を抱くようになる。しかし神の観念は生得的なものでもなく、また自分が作り上げたものでもない。私はこれを誰かによって与えられたのであるが、それは神自身であるよりほかは考えられない。私は神の名のもとに、無限性や必然性、絶対性であるといった観念を抱くが、それらの観念は私自身の中にはもともと存在しないものである。何故ならば私は有限であり、偶然に支配され、誰かとの相対的な関係の中でしか生きられない存在だからである。だから、これらの観念は神によって私にもたらされたのだと考えるほかはない。このようにデカルトが神の存在を自分自身のうちにある観念から引き出すやり方は、もともとデカルトの創造によるものではなく、スコラ哲学者の中でもみられたものだ。人間は有限で移ろいやすいものであるのに対して、神は無限で絶対的な存在である。こうした神の観念を人間は明証的に意識している。このような観念にはそのよって来るものがないはずがない。何故なら存在しないものを、人間は思惟の対象とすることがないから、といった伝統的な議論である。デカルトのユニークな点は、神の存在証明を私の意識のなかにある観念との関連において、発生学的に問題にしていることだ

 

ついで、神の存在についてのア・プリオリな証明とは次のようなものである。神という観念を詳細に分析すると、そこには完全な存在という概念が属している。ところで完全にして最高という観念からは、存在が切り離せない。なぜなら我々は、もともと存在せず、したがって夢のような絵空事に完全で最高などといった観念を結びつけるわけがないからだ。したがって、神という観念には存在が必然的に結びついているのだ。デカルトのこのような議論は、我々現代人の目には詭弁の類に映る。しかしデカルト本人はこれを真剣に論じているのだ。> 

http://philosophy.hix05.com/Descartes/descartes07.html

 

上記引用の「神と人間」と出された文言における「神というのは人間が実際に体験することのできる現実であって、人間が生み出した単なる観念ではない」といった言葉は、このデカルトの「神の存在証明」を念頭に置いての反対命題であるとも言えよう。確かに絶対他者としての「神」が「人間が生み出した単なる観念」であるはずはないが、「神」観念はデカルトの言うとおり生得的でも経験的でもなく「神」の賜物であると信じるからだ。したがって基本的には私はデカルトの方にくみする。厳密さの点ではともかく、神信仰の実践的要請として、聖書啓示への認識の許容範囲内に思考を制限するなら、「神」を「体験する」という言い方は成り立たない。体験し得るのは「神との関係」であって「神」御自身は人間が体験できない聖なる存在である。

 

ところで国木田独歩は、「嗚呼神よ。大なる全能なる神よ。」と呼びかけているが、自分にとっても「人格神」とはまずもって色んな意味でスケールの「大なる」存在であり、そこが日本の自然神信仰とは異なる感覚である。理屈では人格神とて無限大であると同時に無限小だの、そもそも大小で表現すべき存在ではないだのといろいろ言えるわけだが、信仰の核は実存的かつ直観(または直感)的なものなのである。上に挙げた旧約と新約からの聖句を見ても、やはり「神」を無限大にイメージしていることがわかる。聖書的「神」は「細部に宿る」ようなものではないのだ。そもそもこれは建築的意味であり神論的には無視すべき言葉なのだが、形而上学的には細部も何も全てが「神の中」に存在している。ということは、ハートショーンという人物の、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であるといった考え方にも一理ある。またこれに対して喜田川氏のように、汎神論と万有(内)在神論との明確な区別が出来るのか?あるいは、真の意味の創造を言うことができるのか?といった批判にも一理ある。「万有(内)在神論=汎(内)在神論」では、「神」が「万有=汎」に「内在」するという意味にとられるので「汎神論」と大差なく適切な表現とは思えない。「内在」の面よりも「超越」の面の方が前面に出る表現にして然りである。しかもその「内在」というのは「神」の当体が万物に宿るといった意味ではなく、要するに世界の微々たる隅々にまで「神」の支配の及ばぬところは無いという意味にとられなければならない。そういう意味なら「神は細部に宿る」もアリだ。映画「ベン・ハー」では「神は人の心に宿る」といった言葉もセリフの中に出てきたが、こうして私が「神」について書いているのも「心=脳の働き」によるものだとすれば、「心=脳の働き」こそが「神」を「無限大」にイメージするのであって、そこに「神」が宿るのだから、必ずしも「神」を人間に内在せしめることにはならない。「宿る」というと何やらアミニズム的だが、言わば人の観念を用いてでも働きかけてこられるという意味であって、「神」の実体が脳内に入ってくるといった意味ではない。あるいは「神は人の心に宿る」という表現を人間の神理解の限界として解釈することもできるし、その方が上記の解釈より適切かも知れない。つまり人間は「神」の全容を知ることは出来ないが、カント的意味で不可知だということではなく、啓示認識の範囲内では対象となり可知である。その範囲において各人の「心」の中に「神」が聖霊によって「観想(イメージ)される」ことを「神が宿る」と表現したのだと解せば辻褄は合うだろう。

ちなみにイスラームの「神(アッラーフ)」の働きとして「立法」「信仰内容の決定」「人への内在」の三つが挙げられ、「内在」は神秘体験で感得される「神」なので、一方の「超越」性が強調される神観と違って対象性は薄いと思われる。私にとって「神」とは不断に人間を「超越」するものであって「内在」するものではなく、内在するのは「神」ではなく「神の霊」であるとの認識に変わりはない。この点は、「神=霊」を肯定するも「神」の「遍在」は否定し、人に内在するのは「神の霊」だと説くJWの考えには深く共感する。

 

自説において、(広義の)「神」とは「創造主」と「被造物(世界~宇宙)」との総称である。その「神」が原初の「全宇宙」をも包括した「全体」であって、それが「収縮」ではなく「創造主」と「被造物(世界~宇宙)」とに「(自己)分化」したのだ。これは「神=全体」の「自己限定」である。そこには「不可分・不可同・不可逆」の厳然たる原関係がある。

このような言説は、汎神論だか汎(内)在神論だかはっきりせず曖昧だと指摘されるハートショーン説などとはまったく異なり、汎(内)在神論〔=万有(内)在神論〕と有神論との調停的アイデアである。無論、相対的ではあるが聖書神学的「神」論としては究極的であると思う。しかし本当の究極は、八木誠一氏がキリスト教の歴史のおいて「人格主義的」神観と「場所論的」神観との両方を認めておられるところに表わされていると思う。

 

自説を続けると、「狭義の神=創造主」は唯一「ヤハウェ」であり、イエスが「われらの父」と教えたお方である。われらが生きている現実世界は「広義の神」の中にあるのであって「ヤハ神」の中にあるのではない。「ヤハ神」は創造主であり摂理主であり「イエスの父」であり、「天におられる」お方である。その意味は被造界を超越しておられるということであり、「天」といっても象徴表現であるから、宇宙飛行士のガガーリンが誤解したように宇宙空間にいるということではないが、主の祈りの「天にまします(who art in heaven)」は「狭義の神」である「父」なる「ヤハ神」の「遍在」を否定する意味を持つ。「万有(内)在神論=汎(内)在神論」(pantheism)の「神(theos)」はここで言う「広義の神」を指す。人間にとって都合の良いことも悪いこともすべて、聖定の教理で言われるように何もかも「狭義の神」の意志のもとで、「広義の神」の中に生滅するのである。

「現代の教養ある人々におけるキリスト教的思考はすでに少し前から、空間的に地上のかなたの天に住む神といったものの観念を放棄することに慣れてきた。(中略)人々は一般に、それらは文字どおりにではなくまさにただ比喩的に考えられているにすぎないことを知っている。神がこの世を超えていることは、専門的な表現で『神の超越性』とよばれる。人々は今日、この超越性は場所的に理解されるべきではないということを明らかに知っている。(中略)聖書はこれらの場所的な表象によって何かより深いもの、それらの表象の背後にあるものを意味している。」(『現代における神』p55)

「聖書の言い方によれば、天は神の場所である。『天にまします、われらの父』という言葉で主の祈りは始まる。(中略)神は、『天に住む』かたである。しかし、そもそも天とは何であろうか。(中略)多くの言語は天文学的な天と、信仰が語るところの天に対してまったく違った言葉をもっており、たとえば英語で前者は sky 後者は heaven といわれる。(中略)神が天に住みたもうという命題は、神が神殿に住みたまわない、ということを否定的に言う、というのは、古代の異教は神殿を築くことによって、神が一定の聖なる場所において人間に現われる、ということを表現したからである。それに対してイスラエル人たちは、神をこのような意味で一つの場所に結びつけることを決してしなかった。(中略)それゆえ、エルサレムにあるソロモンの宮殿はふつうの意味での宮殿ではない。そこには神の像がない。そこには、そのいちばん奥の所に、砂漠における神の導きのしるし、すなわち律法の板を入れた契約の箱が置かれている。神はそこに住みたまわず、神は『天』に住みたもう。このことはさしあたってただ、『地上にではなく、一つの聖なる場所にではない』、ということを言っているのである。」(同、p67~71)

 

「神(彼)のうちに私たちは生きる(エン アウトー ゾーメン)。そして動き、存在する(カイ キヌーメサ カイ エスメン)。」という場合の「神」とは「広義の神」であるから、要するに「神のうちに存在する」とは、人は「狭義の神=ヤハウェ」の被造物として「インマヌエル」の関係に置かれているという当然のことを意味する。しかしこの当然のことこそ究極の恩寵であり救いなのだ。われわれ個々人に存在の根拠があり生きる意味があるということだ。本当に信仰の恵みを与えられている者はそれだけで「救い」を実感できる。なぜなら現実は虚無ではないからだ。それだけで十分すばらしい。都合の良いことと悪いことのうち前者だけを得ることだとか、天国と地獄のうちの前者に入れてもらうことだといった考えは聖書が示す真の意味の「救い」ではない。愚かなる神義論の発生原因が、この利益信仰である。生かされていることが益なり。この原事実を見失うと絶望に陥ることになる。看却下!