根源(者)としての「神」

無教会に属する量義治氏は、信仰は認識論的事態(=意識の事柄)ではなく存在論的事態(=存在の事柄)だと述べておられます(量義治著『無信仰の信仰 神なき時代をどう生きるか』〔ネスコ/文藝春秋〕参照、『関根正雄記念 キリスト教講演集Ⅰ,Ⅱ』〔関根正雄記念キリスト教講演会準備会〕参照)。

 

(参考)人類滅亡預言2015年10月・愛の神は戦争の神

[もう亡くなった量先生が、この集会で、「無信仰の信仰」という話をしてくださいました。イエス・キリストへの信仰によって救われるのではなく、イエス・キリストの信仰によって救われるという、皆さんもご存知の話です。それは、信仰があってもなくても救われるという考え方です。私は今、量先生は聖書に忠実だったと思います。信仰があってもなくても救われるが、ただ毎週集会に来て聖書を読みなさい、という量先生の教えは、愛の教えであったと思うのです。つまり量先生は、私たちに「最高の道」を教えてくれたのです。]

http://onhappiness.blog2.fc2.com/

 

しかし信仰は「(対)神関係」における人の態度であり、当然、意識を媒介します。従って量氏は「信仰」と「(対)神関係」とを混同しておられるとしか思えません。同じ区別なら、「(対)神関係」は「存在の事柄」、「信仰」は「意識の事柄」とする方がまだしも量氏の「無信仰の信仰」説よりは現実的で説得力があると思います。量氏も神の対象性を否定していますが、対象性なき神こそ哲学的観念にすぎません。聖書に於いては「神の対象性」は単なる観念ではなく、自分のような信徒にとってはまさに心霊上の事実なのです。旧約聖書では神の対象性を「顔」という言葉で象徴的に示しています。無論、神に動物のような顔があるわけではありません。元・同志社理事長で旧約学者の野本真也師が「比喩としての旧約テキスト」という論文の中で「神の現実性を伝達する場合、旧約の人びとは、じつにさまざまな隠喩を用いている」と指摘し、「比喩の感覚や意識が失われると、旧約の人びとが非常に大きな感動をもって認識し、その感動を伝達しようとしたところの神の現実性が、われわれに伝わらなくなってしま」うと述べておられるとおり、信仰生活の核心である神との個別の関係とその感動が活かされるためには、聖書の比喩を尊重する態度が必要です。上記の論文では聖書は神を父性の面だけではなく母性の面でも豊かに表現していることを指摘していますが、私の信仰に於いてはキリスト・イエスが「神」を「アッバ」と呼んでおられるとおり、やはり父性の面に重きが置かれています。「神の顔」といえば、イエスの顔と同定するような説もありますが、イエスの顔は誰も知らないし、聖画的に想像したところであくまでも人としての顔であり、決して神の顔ではありません。人は「活ける神」を物の如くに客体として(=偶像化して)認識することは出来ませんが、対人関係に於いて顔の見えない相手と誠実な人格的関係を結ぶことは出来ないように、対神関係においても全く捉えどころのない得体の知れない相手を信頼することは出来ません。十戒の第一戒(出エジプト記20:3)で「私の面前で君は他の神々を持ってはならない」(関根正雄訳.「面前」は「アル(~の前に、~の上に) パーナーイ(私の顔)」〔※「顔(面)」は複数形「パーニーム」〕)と言われているのは、神にも「顔」で象徴される人格的対象性があることを意味します。また、「君はわが顔を見ることは出来ない。人がわが顔を見て、なお生きていることは出来ないのだから」(同、出エジプト記33:20)と言われているのも、神の顔を人は見ることは出来ないということと神に顔が無いということとは全く違い、むしろ神には何らかの意味で実体性を認めることは出来るということです。少なくともモーセは神の「後ろ」(アーホール)を見ることが許されたのであり、ヤハウェはそのような意味での認識対象となり給うたのです(出エジプト記33:11他参照)。また、神聖法典の用語法の「私の顔を与える」は神の怒りと処罰の意志を表すとのこと(岩波版レビ記17:10の注参照)。

 

 「神」をいわゆる「人格神(観)」でイメージしようとすると、その存在が「時間」と「空間」のうち後者の方に偏るが、己の限界状況をふまえて実存的・実質的に求めると、む

しろ前者が強まる。そしてそれが「神」を存在の「根源」として観想する「太源神観」に発展する。すなわち「神」を、宇宙空間の何処かに客体として存在するものとしてイメージしようとしてはダメだということ。結局、その試みは破れる。なぜなら、「遍在」とか「内在」の教理に動揺されて、次のリンク先のようなドグマに固執せねばならなくなるからだ。すなわち敷衍して言えば、被造界に遍在し被造物に内在する「神」とは、「神は霊なり」(ヨハネ4:24)とは言え「神」それ自体ではなく「神(=父)の霊」(マタイ10:20)であり、この「霊」が、言わば本体である「神」から独立した「人格」ではなく、「神の霊」だから「神」ご自身の人格を映す働きであり「活(動)力」であるといったことである。

http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2011572?q=%E9%81%8D%E5%9C%A8&p=par 

いわゆる「万有(内)在神論=汎(内)在神論」といったことを取り込んでもダメ。そういう、相対的でしかない教説等を、少なくとも自分ないしは自分たちの信仰共同体においては絶対的なこととして固持することは独断であり、思弁の体系化における破れであり、その無理は自己抑圧につながる。宗教的生は逆に自己開放へと向かわねばならない。神観は大別すれば「人格神観」と「非人格神観」で、聖書的には両要素がバランスよく活かされて然り。それは「神」を人生のアルファとオメガとして信知すること、すなわち、そこから出てそこへ帰るべき「本源(者)、根源(者)、太源(者)」としてイメージすることにほかならない。

(参考URL)

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A2RiDkGjU1BWv2UArcgN.vN7?page=1&qid=10152669255&fr=chie_my_notice_ba

ただしこれは、「神」が意志(意思)を持つという意味で「人格神」であることが前提であり(「人格神」の「人格」はあくまでも比喩なり!)、他者性なき信仰からは倫理が生まれてきにくい。その反面、人格神への信仰だからこそ宗教戦争になるとか(ヤハウェは並木氏によれば元は「連合戦争神」である。しかしそのような神観をパレスティナ紛争の要因の一つとみるのは短絡的ではないだろうか?)解放の神学における「神」のようにイデオロギー色の強い偶像が現れるというデメリットもある。だから「非人格」的な面も全く無意味とは言えないが、聖書的神信仰は「非人格神観」より「人格神観」の方に重きを置いて然り。「神」が「父」であるとはそういう意味である。八木誠一氏の言われる「場所論的神学」は伝統的な「人格主義的神学」の補完的な役割を担うべきものだろう。

対神関係における人間の信仰状態は意識と無意識とが混合している。信仰は常に意識的であると思ったら大間違い!

「この私は、臥して眠り、目が覚めた、ヤハウェが私を支えているからだ。」(詩篇3:6)

「平安に、臥すとすぐ私は眠る、まことに、あなたヤハウェだけが安らかに私を住ませて下さる。」(詩篇4:9)

死に臨む限界状況における信仰は、まさにこのような無意識を多く含むものであり、その状況に即した神観もまた無意識的要素を取り込んだものでないと現実に対応できない。その点でも上記の「太源神観」は、神観として究極的だと思う。

生物の死とは「父なる神」への落下なり。被造物は、生命の源である「神」から発し、噴水の如く放物線を描いて「神」へと戻る。すなわち上昇し下降する。

「わたしを彼らは棄てた、生ける水の源を。」(エレミヤ書2:13)

「あなたのもとには、いのちの源があるのだから。」(詩篇36:10)※「(水)源」は「マーコール」で「(源)泉」とも訳される。「(生)命」は「ハイーム」。

 

「キリスト」は形而上的理屈によって「神」なのではなく、世の人生の現実では、「父=光源」を示す「光」として実際的に「神の子」であり「神」なのだ。己の人生のバラバラな破片は全て「父なる神」によって収集・統合され意味あらしめられる。この希望によってこそ心身は安定し平安を得る。

キリストの父なる「神」は、己を含む万物の根源である。

●「すべてのものは彼から〔出で〕、彼によって〔おり〕、そして彼へと〔向かっている〕」(ローマ11:36)

エク(から) アウトゥー(彼) カイ(また) ディア(より) アウトゥー(彼に) カイ(また)エイス(に向かって) アウトン(彼) タ パンタ(すべてのものは)

※前置詞「ディア」はこの場合、属格支配で手段・媒介・原因を意味する。「~を通して、~によって」。

 

●「その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。」(コリント一8:6)

エク(から) ウー(彼) タ パンタ(すべてのものは) カイ(そして) ヒュメイス (私たちは)エイス(へと) アウトン(彼)

※前置詞「エク」は属格支配で「ウー」は関係代名詞「ホス」の属格。前置詞「エイス」は対格支配で「アウトン」は「アウトス」の対格。「ヒュメイス」は「エゴー」の複数主格。

●「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(コリント一15:28)

トー ヒュポタクサンティ(従わせた方に) アウトー(彼に)タ パンタ(すべてのものを)ヒナ(ためである)エー(なる)ホ セオス(神が)[タ]パンタ(すべてと)エン(おいて)パーシン(すべてに)

 

「タ パンタ」は「パース」(〔名〕全て〔形〕全ての)の中性複数主・対格で、主格は「万物」と訳される。「冠詞+パンタ」も「パンタ+冠詞」も「全~」の意あり。新改訳の「すべてのこと」よりも、口語訳、岩波版(青野)訳の「万物」、あるいは新共同訳、新世界訳、川端由喜男訳の「すべてのもの」の方が妥当。なお「パーシン」は「パース」の男・中性複数与格。

 

以下、宗教哲学者の花岡(別名:川村)永子博士の発題記録より引用。

 

 

<キリスト教の絶対者の人格性について

 

神の子の受肉と磔刑と復活

 

キリスト教では、絶対者としての神は、一般的には、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354–430 以来、 彼の三位一体論 De Trinitate, 419 に見られるよう

 

に父、子、聖霊という三つの位格(personaと一つの 実体(力、智慧)から成り立っていると理解されている。しかも三つの位格 ペルソナ という時の「位格 ペルソナ」とは、ラテン語personaの語源が演劇用の仮面であることからも分かるように、社会で一定の役割を持ち、かつ責任を負い得る「人格性を意味する。事実、エデンの園で禁断の木の実を食べてしまったアダムadam =  man 前は何処にいるのか」と呼び掛けている神は、人間と二人称的な関係を結んでいる人格的な神である。更に、S・キェルケゴール以来、一般的には、キリスト教で人間における神の像(imago Dei は、神と人 間との間で二人称で語り合える人格的関係を結び得ることであると理解されている。その上、神の一人子が

 

神の人類に対する愛の故に受肉してキリスト(救世主として生まれ、人類の贖罪の為の死を十字架上で遂げ、死後三日目に復活する。聖書でのこのような記事は、キリスト教の神が、絶対的な人格としての神であることを物語っている。事実、旧約聖書の創世記で、天地の創造主として働き、十戒をモーゼに与えたのも、人格的な神である。

 

神のケノーシス自己空化、k ケノーシス enosis

 

しかしながら、一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。

 

事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖書を拒むことは許されないと語られている。更にフィリ二、七には、神の自己空化kenosisについて述べら

 

れている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。>

 

(花岡永子「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』 Vol 5 2006 http://nirc.nanzan-u.ac.jp/ja/publications/jjsbcs/ 

 

 

アリストテレスは「全体は部分の総和にまさる」と言ったとのこと。ところで聖書において「神」を「父」と比喩することは次のような意味をもつらしい。

「父なる神は恩寵と自由を象徴し、円熟と信仰、生の源が神にあることを親しく知り、存在が窮極において善であることを確信し、成長と創造が可能であること・・・・・を象徴している。したがって、正しく解するならば聖書の「父」という象徴は・・・・・束縛ではなく解放を、依存ではなく責任を、幼児性ではなく成人性を意味しているのである。>

(~R・H・ケリー『父なる神 イエスの教えにおける神学と父権制』)

 

「神は霊」なので、「神」のイメージは間接的にイメージされて然りです。聖書には「神」の姿形を直接にイメージさせるような描写はほとんどなく、イエスの譬え話などは間接イメージです。また、私は「ソロモンの祈り」(列王記上8章27節)の「神は本当に地上にお住みになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることができません。私が建てたこの神殿などなおさらです。」(その他、新約聖書の使徒行伝7:48~49、17:24~28参照)から、間接的に「神」を「(無限)大」なる存在としてイメージします。

 

神学においては「類比」が用いられます。カール・バルトはトマス・アクィナスないしはローマ・カトリックの「存在の類比」を否定して「関係の類比」を肯定しました。「神学は『神についてのことば』である。しかし、一体どのようにして神は人間の言語を用いて記述され、論じられ得るのであろうか。ヴィットゲンシュタインはこの点を強力にこう語っている。人間の言葉がコーヒーの特色ある香りを表現出来ないなら、どうして神のような微妙なものに、人間の言葉は取り組めるだろうか、と。   類比   こうした問いに対する神学の答えの基礎となっているおそらく最も基本的な思想は、普通『類比の原理』と呼ばれているものであろう。神が世界を創造したという事実は、神と世界との間の基本的な『存在の類比(analogia entis)』を指し示している。世界の存在における神の存在の表現ということに基づく神と世界との連続性がある。こういうわけで、被造秩序の中にある実体を神の類比として用いることは正しい。このようにすることで神学は、神を造られた客体や存在に引き下ろすのではない。神とその存在との間に類似性や対応があるということを肯定しているに過ぎない。これによって後者は神を指し示すものとして働けるようになる。造られた実体は神に似ているが、神と同一であることなしに、そうなのである。『神は我々の父である』という言葉を考えてみよう。アクィナスの主張によれば、これは神が人間の父親に似ているという意味だと理解されるべきである。言い換えれば、神は父に類比的である。ある面では神は人間の父のようであり、他の面においてはそうではない。本当に類似しているところはある。神は人間の父親が子供に配慮するように我々に配慮する(マタ七・九-一一を参照)。神は我々の存在の究極的な源であり、それはちょうど我々の父親が我々を存在させるのと同様である。神は人間の父親がするのと同じように我々に対して権力を行使する。また、全く似ていないところもある。例えば、神は人間ではない。また、人間には母親が必要であっても、神の母親が必要である、つまり、ふたりの神が必要であるということにはならない。アクィナスの言いたいことははっきりとしている。神の自己啓示が日常的な存在である我々の世界と結び付いている像や観念を用いるというのである。とはいえ、そうした像や観念は神を日常世界に引き下ろしはしない。『神は我々の父である』と言うことは、神はただ、もう一人の人間の父親に過ぎないと言うことではない。また、後で見るように、神は男性であるべきだと考えられているのでもない(三六三―六頁参照)。そうではなくて、人間の父親について考えることが神について考える助けになると言っているのである。これは類比である。あらゆる類比がそうであるように、成り立たなくなるところがある。しかしながら、類比はなおも神について考える上で非常に役立つ、また生き生きとした仕方なのである。これによって我々は、我々の世界の語彙と像を用いて、究極的にはそれらを超えているものを記述出来るようにされることになる。『神は愛である』と言うとき、我々は我々自身の愛する能力のことを言っているのであり、この愛が神において完全である場合を試し、想像するのである。『神の愛』を人間の愛の水準にまで引き下ろすのではない。そうではなくて、ここに示されているのは、人間の愛が神の愛の表示となるということであり、この表示はある限界の中で神の愛を写し出すのだということである。」(アリスター・E.マクグラス著、神代真砂実訳『キリスト教神学入門』〔教文館〕p347~349)               

キリストは究極的ではあるけれども、なお最終の究極者そのものではない。それは存在者が「どのように」あるかの根拠であって、存在者が「ある」ことそのことの根源ではない。そして存在者の「存在」の根源、すなわちあらゆる有の創造者は神なのである。だから新約聖書ではキリストだけではなく、神が語られ、神が創造者なのである。>(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p135)

存在するものの「存在」の根源、つまり有の創造者は神なのである。そして存在するものが「どのようにあるか」はロゴスによって定められる。だから、「すべてのものは、(神によって)、ロゴスを通じて、成った」といわれる(ヨハネ一・三)のである。>(同、p138)

キリストは存在者と相関的であり、存在が「どのように」あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない存在者が「ある」ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。>(同、p147) 

 

 

クルアーン28:88「アッラーとならべて他の神を拝んではならぬ。もともと、ほかに神はない。すべてのものは滅び去り、ただ(滅びぬは)その御顔のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ戻されて行く。」(井筒俊彦書『コーランを読む』〔岩波セミナーブック1〕p85)

この「お側に連れ戻されて行く」という訳は重要。コヘレト書12:7の「そして、塵はもと通りに地に戻り、霊はこれを与えた神に戻る」と、「神に戻る」あるいは「神に帰る」と言っても、「神」本体への帰入とか言うのではなく、あくまでも「神」の「お側に」であり、神秘主義の「神人合一」とは根本的に異なる。

 

<現世は儚い仮の宿であるが、この現世在住の間、霊魂は物資の桎梏に纏綿されて不純不浄な状態に堕している。この不幸な霊魂を、真の認識と敬虔な行為との二つの手段によって浄化し、地上生活の牢獄から一刻も早く解放してその神聖な太源に「還行」(maad)させることが存在の最高目的なのである。>(井筒俊彦著『イスラーム思想史』〔中公文庫〕p257)※「還行」に「マアード」とフリガナあり。発音記号は省略。

 

「神聖な太源」が「神」であるなら、この「神」に万物は帰一する。御子自身も従わせられる。(コリント一15:28参照)

 

 

以下、前掲の『イスラーム思想史』より「神(観)」に関する記述を抜粋引用。

 

<アラビア人は極めて視覚的、聴覚的な民族であった。そしてムハンマドは恐らく本能的に、無意識的に、このアラビア人の根本的特質を完全に把握していたのであった。

当時のアラビア人は何でも自分の眼で視てからでなくては信用しなかった。彼らに向って抽象的に神の存在や、神の偉大さを説いて見たところで一向利き目はなかったのである。だから、コーランにおいてはアッラーはまず何にもまして「生ける」神であることが強調され、アッラーはあたかも人々の目前にありありと見えるかの如く描かれている。そこで神は人間と同じように手もあり足もあり、顔もあり、顔には勿論目も耳も口も、更に口には舌もあって人々に話かける。

彼は人間が善い事をすれば喜んでこれを愛し、悪い事をすれば烈火の如く怒る。一口にいえば極めて人間的な神である。そして、この人間的な神は空一杯にひろがる大きな玉座にどっかりと腰を下ろしているのである。

但し、このような神の観方はアラビア人に対して異常な効果を収めた一方、人々を駆って極端な擬人神観(Anthropomorphismus)に走らせる危険も多分に含んでいた。この神の擬人観をアラビア語ではタジュシーム(tajsim 肉体付けること)と呼び、非常に沢山の回教徒がこれに陥った。

西洋で歴史上アルモラヴィド(Almoravids)と称されるアフリカ・スペインの回教徒団体 al-Murabitun などは、後述する通りこの種の思想を抱いた代表的なものである。

いずれにしても、コーランでは、神が全く眼に見えるように書いてある。また、それのみならず、神自らも視力すぐれ(basir)聴力秀でた(sami)ものであることが到る処で強調されている。事実、当時のアラビア人の間では、「耳も聞えず眼も見えず」といえば生命のない木偶坊というのと同じだったのである。(中略)「アッラーはあらゆる事に対し能力をもち給う」とだけ言っても、アラビア人は少しもアッラーの偉大な力を感じはしなかった。(中略)何でも眼に見える物が神の力の具体的な現れとして説かれた。通常、英語でsign(しるし)と訳されているアラビア語 ayah(複数 ayat)は、こういう神の力の眼に見える現れをいうのである。こうしてアラビア人達は宇宙万象に神の偉力の現れを見る、新しい自然の観方をイスラームによって教えられ、自分の身の廻りに神の力をしみじみと感じて深い喜びに包まれたのであった。(中略)

今まで説明して来たように視覚的・聴覚的であるアラビア人が、結局、本質において感覚的であり物質主義者であったことは当然である。仮に彼らを哲学者に見たてるならば、彼らは個物主義者であり、ノミナリストであった。感覚的な現実の彼方に、それを超越するイデア的なものの実在を信じるレアリストではあり得なかった。(中略)彼らが観るものは常にこの時、この場所という時空に制限された個

々の物である。個物を超えた一般者には彼らは全然用がない。(中略)眼の前にある大小様々の円は視ても、そこに個々の円形を超えた円というものを視ようとはしない。つまり物をいわゆる「永遠の相の下に」(sub specle aeternitatis)視るなどということは彼らの思いもかけない所であった。彼らには事物の非合理的側面しか見ることができなかった。現実的な彼らはイデアの世界はかつて顧みたことがなかったのである。激烈な、妥協を許さぬ現実主義、徹底的な感覚主義と個物主義がそこにあった。>(p20~24  ※改行は本文の通りではない。発音記号は省略。)

 

ここではイスラームの神観と、アラビア人の特質との関連が示されている。「ギリシャ人は視覚(あるいは「眼」)の民族、ヘブライ人は聴覚(あるいは「耳」)の民族」といった端的な言葉を聞いたことはあるが、その点ではアラビア人はギリシャ人とヘブライ人両者の特質を兼ね備えていたとも言える。

また、「擬人神観」は旧約聖書にもみられることだが、その程度はヘブライ人より上だったということだろうか・・・、広義の「人格神」信仰の宗教には宿命的なことだろう。要はそれが類比としての限界があることを弁えていればよいのだ。なにごとも程度問題・・・「ほどほどの原則」である。

 

<ムアタズィラは予定論を排し、人間の行為は全て人間に帰するのであるから、人間は要するに神と並んで第二の創造主となる。(中略)ムアタズィラは「執り成し」(shafa'ah)なるものを認めない。イスラームにおいては、最後の審判の時、ムハンマドが信徒のために神に執り成しを為し、罪を犯した回教徒の罰をできるだけ軽くしてくれるという信仰がある。この執り成しは後述する正統派でも認められ、罪人たりとも、若しその心に一粒の信仰があれば、必ずムハンマドの調停によって地獄から救い出されるであろうといわれている。ムアタズィラはこれを完全に否定するのである。自ら進んで悪い行為をした者が地獄の火に焼かれるのは当然であって、これを予言者が救い出すということがあるはずがないと彼らは主張するのであった。

更に、もう一つムアタズィラの思想で重要な点は、神を人間化して表象すること(前出、tajsim 別に tashbih ともいう)に徹頭徹尾反対したことである。コーランにあれ程ありありと生きた神として描かれたアッラーの姿は、ここに全く粉砕されるに至った。ムアタズィラは第一章に述べたアラビア固有の精神とは正反対の方向に向って極端にその合理的理論を推し進めて行ったのである。(中略)果して大きな反動が起った。それが次章に述べるアシュアリーの運動である。

それはともかくとして、ムアタズィラは、神に関してコーランに見出されるあらゆる人間的な表現はアレゴリーに過ぎないと考えた。例えばアッラーの手といえば、その惜しみなく与えることを、アッラーの顔といえば、その知識を表わすものと解釈された。こういう比喩的解釈法を術語ではターウィール(ta`wil)と呼ぶ。

神は始めなく終りなく、全てを含み、何者にも含まれることなく、時間、空間、概念を超越した無限者であり絶対者である。コーランでは神は大空に拡がる玉座に腰かけていることになっているが、勿論比喩に過ぎぬ。神は無限者である故に、何処にいると場所を定める訳には行かない。神は宇宙を充たし、しかも同時に宇宙を超越し、これを包含している。この考えをムアタズィラはその分派により色々に表現している。(中略)

このように神は具象的形態では全く想像もつかぬ無限者であり、従ってまたどのような状態においても人間の眼には絶対に見えぬ、と彼らは説いた。神が人間の眼に見えるか見えないかというような議論は、一神教的神学においては一つの重大な問題である。そのことはキリスト教における「至福直観」(visio beatifica)の問題の重大さと思い合せて見れば容易に納得されるであろう。>(p58~60)

 

ムアタズィラ派への反動の先頭はムアタズィラ派の内部にいた上記のアシュアリーという人であり(p65参照)、彼については次のように書かれている。

 

<アリュアリーは「中間を行った」というのがイスラーム思想史研究者の通説になっている。それは粗雑な擬人神観主義が神を全く人間と等しく表象し、「神は我々人間と同じ知識を有し、我々人間と同じ能力を有し、同じ聴覚、同じ視力を有する」と考えるのにも直接与することなく、さればとて「神には知識もなければ、能力も聴覚も視覚も生命も意志もない」というムアタズィラの意見にも従わず、「いと高き神は知識を有するが、それは人間の知識の如きものではない。能力を有するが、我々の能力の如きものではない。聴覚も視覚も有するが、それは我々の聴覚や視覚の如きものではない」という立場を採ったことを指すのである。

ところがここに注目すべきことは、このような「中間的」立場が、今我々の取扱っている彼の著書『宗教の根本原理解明』に述べられている説ではない事である。

本書における彼の態度は遥かに積極的であり、遥かに非妥協的である。彼はコーランの章句は全く文字通りに解釈しなければならぬ、神があたかも人間の如く描かれてあっても、それがコーランの章句である以上、アレゴリカルな解釈(ta`wil)を加えてはいけないということを盛んに力説している。

人はコーランにおける神の人間的描写を象徴的に解釈して、それで擬人神観(Anthropomorphismus―tajsim,tashbih)に陥ることを避けようとするが、その代りに ta'til に陥ってしまう。アッラーから人間的要素を排除(tanzih)しようとするあまり、ta'til を犯してはならない。この種の誤りを犯した極端な者はジャフム派(Jahmiyah)の人々である。彼らは、アッラー自らがコーランの中ではっきりと自分には顔があるとしているにも拘らず、これを無視して、アッラーには顔は無いという。(中略)彼らは単に神の唯一性のみを認めて、その種々の属性を否定する。(中略)彼らの指導者の一人のごときは、アッラーの知識はアッラーそのものであって、つまり「アッラーは知識である」との説を吐いているが、かくして彼は表面上アッラーの知識を認めるかのように見せながら、実はそれを否定しているのである。もし本当に彼の主張する如くアッラーの知識がアッラー自身なら、神に呼びかけるかわりに、「おお知識よ、何卒わが罪を赦し給え」とでも言ったらいいではないか、とアシュアリーは皮肉っている。こうして、世の合理主義的思潮に対抗するため、極端な伝統主義者、イブン・ハンバルに徹頭徹尾従おうとしたアシュアリー(中略)彼自身の信条は次の通りである。(中略)(5)アッラーは、コーラン二〇章四節に「限りない慈悲の主(神)は玉座に腰を下ろし給う」とあるに従い、玉座の上にあることを信じる。(6)神はコーランの多くの章句により、顔をもち、手をもち、眼をもつ。但し、これ以上に詳しくそれは如何にあるかということは問わずに、そのまま(bila kaifa)受け容れねばならぬ。神を上の如く解さぬ者は、全て迷いの路にある人々に属する。(中略)(23)神は日々天の最下層に降り立って、「何か願っている人は無いか。誰か我が赦しを請うている者は無いか」と尋ね給うというハディースの真実性を信じる。(中略)

果して彼は単に従来の慣習通りに信仰して行きさえすればよいとする無反省的伝統墨守(taqlid)を排し、思索によって神を認識する努力を始めたのであった。世にいう所の「アシュアリーは中間を行った」(salakatariqah baina-huma)という彼の立場は、この頃の彼の態度を表わすものであろう。(中略)アシュアリー派がこの点でムアタズィラと違っていたのは、ムアタズィラが飽くまで論理的な推理を進めて、コーランの教えと正反対の結論に達しても何等意に介さなかったのに反し、常に理性の自由をコーランに反さぬ程度にのみ限っていた所に在るが、要するに程度の差であって本質的な差ではない。故にアシュアリーのイスラーム改新運動はいわゆる正統派(orthodox)の教義に至るには未だ路遠く、後述するガザーリーをまって初めて決定的な形となるのである。>(p71~82)

 

「中間を行く」・・・まさに私の所信である「程々の原則」と通じるところだ。

ムアタズィラ派はイスラームにおいて最初に「理性」を真理の標準として認め確立したそうだが(p56)、彼らの「比喩的解釈法(=ターウィール)」は聖書の解釈にも通じる当然のことだと思う。その点で私はアシュアリーの保守性をこそ批判したい。「神」の身体的表現など比喩に決まっている。類比という方が適切だろう。

<イマーム・ル・ハラマインは正統派の神学者として、神は、語の本来の意味において(すなわち比喩としてでなく)視たり聴いたりする者であることを主張する。これに対してカアビーおよびバグダードにおけるカアビーの弟子達の説では、人が「神が聴く」とか「視る」とか言うのは、そのまま解されるべきではなく、神は認識の対象を、あるがままに正確に認識することを意味するとした。そしてこの説にはナッジャールの一派も一致していた。また、ムアタズィラ派では内部に意見が分裂し、例えばバスラの人々は、神は、本来の意味において聴き、視る者であると説いたのに反し、ジュッバーイー父子は神が聴き、視るとは神が生きており欠点がないことであるとした。>(p115~116)

 

「神」が「聴く」も「視る」も比喩は比喩、類比は類比だが、だからといって「神」にいかなる意味でも「体が無い」というわけではなく、その「名」において「体」があるのだ。しかしそれは所謂「実体」ではない。少なくとも普通の意味では「神」は「実体」ではない。「実体は通常、神学では延長をもつものとされているが、神が延長をもたぬことは先に証明した通りであり、また実体とは偶有を受け入れるものと定義する人もあるが、神が偶有を受け入れるということはあり得ない」(p112)からだ。

 

旧約聖書の「神」の人間的・感情的な描写を文字通り読み取って感情的に批判する者が「ヤフー知恵袋」の宗教カテに悪戯のように投稿する宗教知らずの連中や初心者的信徒には少なくないが、福音派教会の聖書解釈が、この当然の解釈法を受け入れないことが原因だろう。福音派指導者たちは、聖書を「解釈」することそれ自体を否定し(申命記4:2やヨハネ黙示録22:18~19などを根拠に、聖書の「言葉を付け加えたり取り除いたりしてはならない」からだと言うが、それ自体、文脈から飛躍した拡大解釈である)、御当人たちは聖書を「解釈」していないおつもりのようだから対話にはならない。

 

<コーランの内部矛盾に関しては幾多の例を挙げることができるが、後々まで神学上の大問題として、尽きる所を知らぬ論争の源となった神の予定論、即ち宿命論を特に選んで説明して置くのが本書としては適当であろうと思う。

アッラーは唯一、これを措いて他に神なく、創造者はないというのがイスラーム的信仰の最高のテーゼである。このような信仰に立つかぎり、人間の善行、悪行はもとより、凡そこの世に起る事は全て神の創造に帰され、人間の自由意志は否定され、神の予定の絶対性が認められることは当然予想されるのである。世に知られたガザーリー(中略)このイスラーム正統派思想の代表者たる大哲学者・神学者によれば、善悪、利害、知識無智を始め、人が正しいイスラームの信仰に入るのも、また異端の教えに迷って身を滅ぼすのも、皆な偏えにかかって神の意志によるのである。(中略)人間は何一つ自分の意志で自由にできるものをもたない。人間は完全に自由意志を否定されている。そして、このような思想はコーランの到る所に見出されるのである。(中略)事実上コーランは、これらの章句と相並んで、これと正反対な思想をも沢山提供するのである。

思うにムハンマドも、現世に行われている限りない罪業を見て、その心に湧き起る強い疑問を禁じ得なかったのであろう。しかも人々は散々に甚だしい悪行をした上で、全ては神の意志である。責任はアッラーにあって、自分にはないと、平然として口を拭ってそ知らぬ顔をするに至っては、それに対して、これ程の悪を至高至善の神が欲する訳はない、責任は人間にあるのだ、神にはない、と痛感することこそ自然ではないだろうか。(中略)

人間の為す事はどのようなものでも悉く彼自らが、自分の意志で選ぶのであって、善行、悪行いずれにせよ人間はそれを実行するその瞬間まで、為すか為さぬかの選択権をもっているという思想になって来る。そしてこの思想こそ、かのアッバス朝の前期において滔々としてイスラーム世界を席巻し去ったムアタズィラの前身たるカダル派(Qadariyah)の中心的思潮であったのである。(中略)

神の絶対的な予定と人間の自由意志とは後世の神学をまつまでもなく、既にコーランにおいて衝突していたことは、前章に述べた通りである。世に起るありとあらゆる事柄はあらかじめ神が定めて置いたものが実現するに過ぎないという、この神の予定、宿命のことをアラビア語では「カダル」qadar と呼ぶのであるが、そのカダルの絶対性を主張し、人間にいささかも自由意志を認めない一団の人々が、神学上にいわゆる、ジャブル派(Jabriyah)である。

ジャブル(Jabr)とは字義通りには「強制」、誰かを嫌でも応でも強制し、暴力を用いてでも何かをやらせることを意味する。コーランでは、アッラーは「全てをあらかじめ定め給える」もの(alladhi qaddara)(八七章三節)と呼ばれ、反対に人間の側から見ては、「あらかじめ神の書き定め給うた事の外、我らに起ることはない」(九章五一節)と言われているのを見ても分る通り、人間はその一挙手一投足、いや、一瞬のまばたきすら自分の自由にできるものではないという考えは、コーランの多数の章句から生ずる当然の帰結である。(中略)

さて、ジャブル派に対して全く対蹠的な態度をとる学派が前章の最後にその名を挙げたカダル派(Qadariyah 一名、Ahi al-qadar「カダルの人々」)である。彼らは神の予定、宿命を正面から否定し、人間の自由意志を認めた。元来、カダル qadar という言葉は、(神の)定めたもの、即ち宿命を意味するのであるから、カダル派といえば寧ろ宿命論者に適した名称であって、宿命を否定し、カダルを認めない人々をカダル派と呼ぶのは、いささか妙な名付けかたである。>(p35~41)

 

ここにはキリスト教神学における所謂「自由意志論争」と同様の構図がある。すなわちイスラム教における「ジャブル派 VS カダル派」は、キリスト教における言わば「恩寵派(アウグスティヌス、ルター、カルヴァン )」VS 「自由意志派(ペラギウス、エラスムス、アルミニウス)」に対応する。

 

 

次は、イスラーム神観へのネオ・プラトニズムの影響と差異に関する記事の中から抜粋引用する。

 

 <ファーラービーは獲得知性の現成を神秘主義的「合一」(unio mystica,〔略〕)と混同してはならないと言う。地上に生きているかぎり人間の神化は絶対に不可能である、と彼は確信していた。この点でファーラービーはプロティノスやポルフュリオスとは立場を異にする。人はスーフィーの主張するように絶対者の中に融入しきりこれと合一しきることはできない。ただ神に近付くことができるだけである。正しい認識によって、人間能力の限界内において神に接近することがファーラービーにとって哲学の究極の目的であった。(中略)

原因を順々に辿って行くと、一番端に、それ自身は最早何者をも原因としてもつことなく、絶対に必然的に存在し、最高度の完全さと無比の実在性とをもち、自立、不変、純粋善であって且つ純粋思惟である存在者があると考えねばならぬ。原因の系列はこの根本原因に突きあたってその遡行は停止するのである。もはや他の何者をも原因としてもたず、しかも自らはありとあらゆる存在者の原因である必然的存在者、「第一存在」(al-wujud al-awwal )はその存在を我々は論証することはできない。なぜならば彼自身が全てのものの証明であり、第一の原因であるから。また、これを我々は定義することもできないのである。この定義できず、証明できない完全無欠の存在、第一原因を神(アッラー)と言う。この意味に解されたアッラーは全く質量性のかげりをもたない故に絶対的叡智体である。そしてこの根源的な叡智体から全存在界が幾つかの層をなしつつ「流出する」。

ここで我々はファーラービーと、流出論の始祖プロティノスとの差異に注意する必要がある。プロティノスにあっては全存在界の太源である「一者」は完全な超越者であり、言亡絶慮の幽邃な「無」であるのに反して、ファーラービーの「第一存在」は既にそれ自身が知性的である。すなわち「第一存在」としての神は自ら知性そのものであり、同時に知性自身の対象であり、また知的認識活動の主体でもある。かくて神は自分自身を超時間的に認知する。そして神のこの知的活動によって一つの超時間的存在者が超時間的に流出する。これが最初の被造物であり最高の存在界であるところの「第一知性」である。これがプロティノスの「ヌース」に当る。第一知性はその本質上、可能的存在者であるけれども、神との関聯において必然的である。可能的でありながら必然的なもの、これを範疇化して相対的必然性(自分自身では本来可能的でありながら他によって必然的であること)を考え出して哲学上の一つの根本概念としたところにファーラービーの特色がある。(中略)神は言葉によって、その(神の)本質を成立させている数々の要素に分解することはできない。という訳は、言葉によって神の概念を規定しようとすれば、どうしてもその言葉は神の本質を成すものの一部か、或はせいぜいその内の幾つかの部分を指し示すに過ぎないからである。一体、或る一つのものの定義の諸部分が指し示す意味は、その定義されたものの存在に対して原因(illah―ここで「原因」とはあるものの本質構成要素を意味する。原因―結果という意味の因果律的「原因」ではない)をあらわす訳であるから、もし上のようなことを可能であるとするならば、神の本質を形成している諸部分が神の存在に対して原因となることになってしまう。(中略)神がこのように部分に分解できないとすれば、まして量やその他の方面から見た部分に分解され得ないことは当然である。従って、必然的に我々は神には大きさもなく、体軀も絶対にないと言わなければならぬ。そして、この点からして神は一であることが知れるのである。なぜなら、神は一であるという意味の一つは、神が分解されないことであるから、そして、全て或る方面から見て分解されないものは、その方面において一であらねばならぬ。(中略)この神の「一であること」こそ神の根元的な本質をなす。(中略)こう考えて来ると、「第一存在」(神)は、その存在において完全である点から推して、我々の心におけるその表象もまた完全の極限に在らねばならぬはずである。ところが事実は決してそうではない。一体、これはどうしたことであろうか。まず我々は、神の側からすれば決して表象困難ではないことを認めなくてはならぬ。なぜなら、神は極度の完全さに在るからである。従って我々の心の裡に映る神の姿が完全でないのは、勿論、神の方に欠陥があるためではなくて、我々の知性の力が弱いためであり、我々の知性が質料と非有とに包まれているためであるとしなければならない。こうして我々は、我々の側に欠陥があるために、神を完全に心に映すことができず、神を真にあるがままに把握することができないのである。神は余りにも完全である故に、我々は眼がくらみ、完全に心に映し得ないのである。それは丁度、光線の場合とよく似ている。光は第一の、完全な、しかも最も明らかな「見えるもの」であり、これによって始めて、ありとあらゆる他の見えるものは見えるものとなるのである。>(p245~252)