要請される「神」

八木誠一氏の場所論的神学においては、「神」とは、「ただ絶対とか究極の存在とかいうのではない。『統合への規定』=『ロゴス』が、『神の支配』であるという場合のその神のことである。統合存在の究極の根柢(創造者)のことである。換言すれば人格同志に愛を命じ、愛を成り立たせる、神のことである。イエスが父とよんだ神のことである。決してそれ以外の神ではない。『統合への規定』を素通りし迂回して語られる神は無意味である。」(『キリスト教は信じうるか』〔講談社現代新書〕p201)

※「神の支配」の「神の」に傍点あり。

もちろん「絶対」とか「究極」ということも「神」の特徴として認めておられるのだろうが、要は、ただ単純にそれだけではない・・・という意味だろう。ちなみに私信によると、「根柢」と「根拠」との違いは「原因」と「理由」との違いと同様で、「存在(現実)の次元での『なぜ』」と「認識の次元での『なぜ』」との違いとのこと。

 

八木氏においては、「神」は「要請」されるのではなく、「神関係というものは、単純素朴にしか成り立たないのである。(中略)神はあるからある。単純素朴に信ずるとき、そのことが明らかとなる、と。(中略)『統合への規定』としてあらわれながら、なおそれとは区別される人格神を信ぜざるをえないのだ。もはや推論の問題ではない神はあるからある。単純素朴に信じていれば、ささやかな信仰の歴史の中で、その確信と信頼は深まってゆく、としか私には言いようがないのである。換言すれば、『統合への規定』は、厳密に認識すればやはりひとつのリアリティであるというより、『神の支配』なのだ。神は『信じられる』。しかしまた、『統合への規定』の認識を通して、『知られる』のである。」(同書p203~205)

「リアリティであるというより」とあるが、前には「神の支配(=復活のキリスト)は、『ヨハネによる福音書』1・1以下のロゴスと同じく、超越的なリアリティである。」(同書p66)と言われている。

現実(=厳実)を直視して突き詰めてゆけば、無神論的にはならず、さりとて単なる有神論的にもならず、人間を超越した「はたらき」としてのリアリティーを認めざるを得ないというのが、八木氏や滝沢氏の思想の根本にあるように思う。しかしそれはかなり理性が研ぎ澄まされた人の場合であって、多くの凡人は曖昧であり、都合の良い時は「神」に願い事をし、都合の悪い時には「この世に神も仏もありはしない」と呟くのである。

宗教信心の根本は「縁(えにし)」であろう。生得的なつながりであり「選び」であって、仏教の「縁起」も含めて全ての「法則」は創造主の摂理の中に用いられている。信心の「縁」なき衆生は度し難い。いくら神義論的な問いを立てても答えは得られず堂々巡り。「縁」ある者は疑問が「解決」せずとも限界状況を先取りする「末悟の信」においていつしか「解消」し、「信」の生活実践に乗り出せる。

 

「神への信がもたらすのは通常 ―― まずは ―― 自分に対向する『<神>に包まれている』という信仰的実感(中略)眼を閉じて太陽に面した人が太陽の光に『包まれている』と感じるようなことである。『神関係』はしかし、これで終わりではない。あえていえば、『対向する神』という捉え方には、『対向する自我』が滅びずに残っているかもしれないのだ。」(八木誠一著『創造的空への道 統合・信・瞑想』〔ぷねうま舎〕p219)

 

八木氏は、「『統合への規定』としてあらわれながら、なおそれとは区別される人格神を信ぜざるをえないのだ。もはや推論の問題ではない。神はあるからある。」と言われる。これは、理性による神認識の否定を意味するだろう。なぜなら「推論」は理性の能力だからだ。「推論」は「要請」を含むので、八木氏はカントを批判しているとも言える。

 

「実践的認識とは、何かが『現にあるべきところのものを表象』(ibid.)し、その「制約は要請される」(ibid.)とする。この規定を、理性使用に関していえば、「理性の理論的使用は、或るものがあることを、ア・プリオリに認識するような理性使用」(ibid.)である。この後者の理性の実践的使用の推論を、カントは「要請(Postulatと呼ぶのである。」(森哲彦氏の論文「カント批判期の神問題」~名古屋市立大学大学院 人間文化研究科『人間文化研究』抜刷 第202014.2

 

あれかこれかではない。八木誠一氏や滝沢克己氏のように、現実を突き詰めていって事実として「ある」としか言わざるを得ない「神」を信じるというアプローチも正しいがそれだけではダメであり、やはりそこに「要請」という実存的アプローチも必要なのである。両者は矛盾せず相乗作用を及ぼす。この両アプローチによって人は対神関係を生き得るのであり、私は、「神学」としては「啓示神学」より「自然神学」の方に重きを置き、「神学」より「宗教哲学」(というより「宗教思想」と言う方が適している)の方に関心が傾く。但し、上に「聖書的」という限定が付く。そしてそれは「聖書的スピリチュアリズム」と不可分であり、「霊界」にもテーマが及んで然り。何故なら、イエスが告知した「神の王国の福音」とはすなわち、物質界の社会的価値基準を相対化し更に刷新し得る別世界の存在とその共同体的価値基準の実在を伝えることを中核とするからだ。それが歴史的現実には、イエスの宣教において逆説的に示されたのである。

 

<イマヌエル・カントは哲学を営む能力である理性の関心について、『純粋理性批判』において次のように述べている。

わたしの理性のあらゆる関心は(思弁的関心も実践的関心も)つぎの三つの問いに集約される。(1)わたしはなにを知ることができるか。(2)わたしはなにをなすべきであるか。(3)わたしはなにを望むことを許されるか

別の箇所では、ここの第一の問いに答えるのは「形而上学」であり、第二の問いに答えるのは「道徳」であり、第三の問いに答えるのは「宗教」であると述べている。そして、「人間とはなんであるか」という第四の問いを立てて、これに答えるのが「人間学」であると述べている。そしてさらに、最初の三つの問いは最後の問いに関わるのであるから、形而上学、道徳、宗教の全体を結局、人間学と見なすことができる、と述べている。カントは形而上学と道徳と宗教とを人間学としてまとめているが、最初の三者は並列関係にあるのではなくて、発展的関係にあるのであるから、人間学の中心は宗教である、と言ってもけっして失当ではないであろう。したがって、カント哲学は、全体として宗教哲学以外のなにものでもないという解釈も、あながち牽強付会とは言えないであろう。>(量義治著『宗教哲学入門』p21~22)

 

<波多野は宗教を定義して次のように述べている。

他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる――これが宗教であり、これが又生の真の相である。(上掲書二一六ページ)

宗教は自我において、自我よりして、自我の力によって生きるのではない。そうではなくて「他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる」のであると言う。この他者は、観念的ではなくて実在的であり、相対的ではなくて絶対的である。宗教において自我が関わる他者は絶対的実在としての絶対的他者なのである。このような他者はふつう神と呼ばれる。宗教とは自我としての人間の絶対的実在としての絶対的他者、すなわち神との関係である。

神聖性

神は観念ではなくて実在である。しかも絶対的実在である。すなわち、神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。

それではこのような実在的絶対的他者なるものの特質はいかなるものであろうか。波多野は言う、それは「神聖性」である、と。(以下、略)>

(量氏前掲書p108~109)※「上掲書」とは、『宗教哲学』(『波多野精一全集 第四巻』〔岩波書店〕)。

 

仲保者論の欠落

総じて波多野宗教哲学の著しい特徴は仲保者論、キリスト教神学的に言えば、キリスト論が欠落していることである。波多野は次のように述べている。

若し現実に存在する諸宗教のうちに、絶対的他者と人間的主体との間を媒介する第三者を説くものがあるとすれば、その場合その第三者は実は第三者でなく神そのものであるか、さもなければ、神は実は神でなく、言ひ換へれば、神聖性は不徹底なるものにをはるか、に外ならぬであろう。

(上掲書四三三 ― 四三四ページ)

波多野はこの文章に注をつけて、「それ故、例へばキリスト教神学の説くキリストの神性は、神の神聖性の必然的帰結とさへいひ得るであろう」と述べている(上掲書四三四ページ)。しかし、キリスト教神学では、キリストは単性論的にではなくて、すなわち、単に神でも単に人でもなくて、両性論的に、すなわち神性と人性との矛盾的自己同一としてとらえられているのである。波多野においては、キリスト論だけではなしに、聖霊論も欠落している。言い換えれば、波多野宗教哲学は三位一体論的にではなくて、ユニテリアン的に論じられているのである。このことは、波多野宗教哲学が宗教一般の哲学であると言うならば、看過することができるが、キリスト教的宗教の哲学としてはやはり問題であると言わざるをえないであろう。>(量氏前掲書p122~123)

 

三位一体論的に論じたら宗教哲学ではなくキリスト教神学になるだろう。量氏の方が、宗教哲学的キリスト教神学になっているのである。「ユニテリアン的に論じられている」のは大いに結構!同じく「一神教」のユダヤ教やイスラム教にも通底し得るには「仲保者論の欠落」はむしろ当然であろう。第三者を立てれば、それは神そのものか、無神論になるということなら、第三者は立てる必要はない。新約聖書の物語においては仲保者キリストには「神」の性質があり、それは現実世界のこと、つまり歴史上の事実の「History」ではなくて、あくまで「His Story」たる物語の中での話なのだから別に認めても良い。 

 

ところで、西谷啓治氏や小田垣雅也氏の説く理詰めの「絶対他者なる人格神」の問題点は、「他者」とは言われながらも実は波多野氏の言う「自我の内に吸収され解消される」観念であるということ。しかもそれを生ける神というか生き神のように言い放っていることだ。それが「生きられ得るのみの無」ということである。これは量氏においては「無的絶対者」ということで処理できるのだろう。すなわち、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(量義治氏前掲書p190)さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(同書p292、293)と指摘されているからだ。これに対して一神教のユダヤ、キリスト、イスラムの諸教における絶対者は有的絶対者であると言い切るならまだしも、キリスト教とイスラム教の絶対者はそうではなく、特にキリスト教の絶対者はまたしても三位一体論を持ち出すことにより「絶対有即絶対無なる神」などと嘯いている(同書p191)。これこそ「人生の神学」と懸け離れた哲学者の神学にほかならない。わけのわからない用語は「人生の神学」では非実践的であり無用として排除される。

人間の主体性において能動的に生きられるようなもの、それも(「絶対」と付くにせよ)「無」と表現されるようなものが、どうして「人間の外に存在する絶対的実在」とか「自我としての人間に対して立つ絶対的他者」などと言えるであろうか!「絶対的実在」とは「有りて有る」と「有」が強調されるべき「神」なのだ。これは理屈ではなく賛美の信仰告白なり!西谷氏や小田垣氏には「神聖性」の理解が不十分、すなわち人間存在の原罪性の感覚と認識がそれこそ欠落しているのである。だから「神」に対して(いかに理屈があろうとも)「無」などという言葉を当てて平気でいられるのであろう。そして量氏には、キリスト論に吸収・解消し得ない神論の特質が軽視されているようだ。だから彼の「無信仰の信仰」論は、もともと放送大学のテキスト(『宗教の哲学』)であったこの『宗教哲学入門』にまで述べられているが、おこがましいと言わざるを得ないし、その問題設定すなわち、「わたしは無神論・ニヒリズムの現代における真の宗教の可能性は『いかにして無信仰の信仰は可能であるか』という問題にかかっていると思っている。(中略)われわれはどうして神が無い時代に神と共に在りうるのであろうか。アウシュヴィッツを見よ。広島・長崎を見よ。そこに神はいたか。世界全体がますます混迷を深めつつある今日、神はわれわれと共にいるのか。」(同書p33)といった考え自体が、まさに形而上学的思弁的なのである。宗教者というのは、理屈のレベルでは山ほどの疑問を抱きながらも、生得的に与えられている「縁(えにし)」によって何故なしに、理屈ぬきに、「神」を信仰し得る、信仰せざるを得ぬ、そんな存在者なのであり、それは新約聖書における、罪人がキリストと共に十字架に磔にされて古き自我に死ぬという物語に象徴的に示されることである。信仰を賜った者は「神」の前に磔にされているのであり、古き自我が生きている限り、いかに神義論的な深い疑念を抱こうとも、それでも「神」との関係から出ては生き得ないことを自覚しているのである。量氏の場合はとにかく、屁理屈が多すぎる。そのわりのは学習不足で、同書p60で、ルカ福音書9:20を「神からのメシア」と訳しているが、荒井献氏が「神のキリスト」と訳して「この呼称には、ルカのイエス理解が適確に言い表されている。(中略)ルカのイエスは神に従属する『神の子』なのである。」(『イエス・キリスト 上』〔講談社学術文庫〕p183.下巻p349参照)と指摘しているとおり、ここの属格は「から」を入れずに訳す方がより適切なのだ。

 

ちなみにカントが名付けた「実践理性の要請」の要請(postulat)とは、カントが古典数学から借りてきた概念であるという。そしてそれは、「演繹体系の構築に必要な、明証的でも明証的でもない命題」を意味し、もともとはラテン語の動詞postulare(要求する、要請する)に由来する語であるという。「要請」と訳される言葉は「公準」(postulate)とも訳される。

(参考URL)

http://ntaki.net/di/Te/ya-wa.htm

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7741518.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095523435

 

<要請はあくまでも純粋実践理性の要請であるのだから、要請の衝動そのものは純粋実践理性にその源泉を持つことになる。(中略)実践理性のこの要求を思弁的理性が理論的に容認するのが第二『批判』で述べられる「純粋実践理性の要請」ということなのだが、このときの思弁的理性の働きは、第三『批判』における二世界の統一に根拠づけられた反省的判断力の統制的使用によって学的に正当化されるわけである。(中略)

これまでのところ、この「純粋実践理性に直接由来する(神の現存および魂の不死の)要請の要求」ということが実質的にはいかなることであるのかがまだ明らかにされていない。(中略)カントは「目的論的判断力批判」の「方法論」第八六節の注(すなわち第八七節での神の現存在の道徳的証明の直前の箇所!)において、自分の心が道徳的感覚との調和の瞬間のうちにある人の例を引き合いに出し、その人が美しい自然に取り囲まれてその現存在の静かで晴れやかな享受のうちにあるとすれば、彼はこのことを誰かに感謝したいという欲求を感じ、また他の場合において彼が義務の履行に迫られているとき、自分がこれと同じ心情状態にあることを認めるとすれば、彼は彼と世界の原因であるような、ある道徳的英知体、すなわち神を必要とする感情を持つと述べる。これは明らかに、直接には美について構成的な構想力の立場、それゆえ全人的な心の立場からとらえられた道徳の実現の問題領野における、全体的な心の状態の事実、人間の実存の事実であると言える。(中略)第二『批判』における神の現存および魂の不死の要請とは、純然たる思弁的意図に基づいた、理念の単なる統制的使用に尽きてしまうものではない。第二『批判』「弁証論」において、理性の純粋実践的能力(要請)において、三種の理念が内在的、構成的となると述べられるのも、この観点から理解されるべきであろう。>(来栖哲明氏の論文「カント『実践理性批判』における神の現存在の要請について」~「九州大学『哲学論文集』第四十二輯」)

 

「若しこの『最高善』の実現を感性界において全面的に不可能として断念し、その実現のための必須条件を、もっぱら可想界における『不死』と『神』とのみに期待しようとするのが道徳から宗教への飛翔であるとすれば、このような飛翔はやはりカントが思弁理性の立場を堅持することによって防止しようとする『狂信』の類にほかならず、和辻とともに俄かに釈然としかねる感を抱く人の少なくないことは当然であろう。このような『不死』と『神』 とへの一種の逃避は、おそらくヨーロッパ社会の長いキリスト教的伝統のうちに深く根ざしているものであろうし、また、ひとりキリスト教にかぎらず、いわゆる宗教一般の陥りがちな素朴な願望と見ることができるであろう。そしてそのかぎりにおいて、カントが、理論理性の立場を前提しつつも、『不死』と『神』とを純粋理性の要請としてその実在性の想定を取上げ、しかもそれに対する『狂信化』を阻止しようとした苦衷を、あながち非難することはできないであろう。(中略)カントが『最高善』の実現のための必須条件としての『不死』と『神』との理念の『実在性を想定』したことは、無制限な実践的認識の拡張としてではなかった。理論的認識において重要な役割をなすのが『範疇』であったように、同じく実践的認識の拡張に際しても、理論的認識の構成において適用されるすべての『範疇』ではないけれども、少なくとも純粋思惟のための『範疇』は適用されて、その実践的認識の拡張の放恣な逸脱を防止しなければならないことをカントは警告するのである。そしてこれらの実践的要請を『神人同形論』や『自然学的神論』に陥らしめず、人間理性に対して理性本来の無限の活性化の力を喪失せしめる迷信を防止するとともに、理性の実践的要請を全く幻想のうちに求め現実界を無視する狂信からこれを守ろうとするのである。そしてそのかぎりにおいて、カントの宗教哲学は、カントの法律哲学、政治哲学、芸術哲学等々と背反するものではありえず、それらとよく相補関係に立ち、むしろそれらの根底にあってそれらを支えるものをなすべきものなのである。」(高峯一愚著『カント 実践理性批判解説』〔論創社〕p256~258)

 

<世界の究極的原因といったものを考える上で、われわれが懐疑論に落ち込まないためには、そういう仕方で「絶対的な自由」(先験的自由)というものを想定する以外の方法はなかったのである。(中略)この「自由」の概念は、もしその「客観性」が実践理性の法則としてたしかに証明されるなら、純粋理性の哲学体系のいわば「要石」をなす概念となるだろう。そしてこのとき、『純粋理性批判』においては決して証明されず、単に「概念」としてだけ認められた他の重要な概念、つまり「神」および「魂の不死」の概念も、もういちど疑いえない現実性を取り戻すことになるだろう。前著で世界の根本理念として挙げた「神」、「自由」、「魂の不死」という三つの理念のうち、「自由」はわれわれが直接に知っている唯一の理念である。(中略)しかし、「神」や「魂の不死」は、道徳的行為それ自身の条件というのではなく、道徳に意味と根拠を与える、「最高善」という目標の条件であるにすぎない。また「神」や「不死」については、それを客観的な実在として証明することは決してできないことを、すでに前著で詳しく見てきた。

(☆⇒第一批判(『純粋理性批判』において、「神」「自由」「魂の不死」は、その客観的存在を証明することはできないが、しかし理性がその推論の力で世界を完全な仕方で思い描こうとするとき、不可避的にもたざるをえない世界の理念であるという意味で、世界の「先験的理念」と呼ばれた。また「最高善」は、「最も道徳的な人間が、最も幸福になるような世界の状態」という道徳の理想的理念を意味し、これがなくては「道徳」の意味が失われることになる。カントでは、この理念の実現の可能性の原理として、神=至上存在がある。)

だがこの二つの理念は、「道徳」を根拠づける「最高善」の条件である以上、その理念の可能性について、われわれはこれを想定せざるをえない。つまり、理念の可能性という観点からは、われわれは、この理念が論理的に内的矛盾を含んでいないことを示すことができればよいのである。この理念の想定は、思弁的理性では、単に主観的なもの(⇒「最高善」があると自分は信じる)にすぎなかった。しかし、純粋な実践的理性(⇒純粋な道徳的意志)においては、それは『客観的に妥当する』といえるものとなる。こうして、「神」および「不死」の理念は、もし実践理性における「自由」の理念の可能性をはっきり証明することができれば、最高善の根拠としてのその現実性が明らかとなるだけでなく、これらの理念をわれわれが想定せねばならない理由(「主観的必然性」)も明確になる。私はこれを「純粋理性の必要」と呼びたい。むろん、繰り返しいうように、このことでこれらの「理念」の客観的な実在性が証明されるわけではなく、いわばその「可能性」が確立されるだけである。だが、この「可能性」は、理論理性では単に一つの「問い」にすぎないものだったが、この実践理性の領域では、むしろ積極的に「主張」されるものとなるのである。>(竹田青嗣著『完全解読 カント実践理性批判』〔講談社選書メチエ〕p13~15)

 

<われわれはつぎのことを忘れてはならない。『およそ一切の関心は、ひっきょうは実践的であり、思弁的理性の関心すらけっきょく条件つきであって、理性の実践的使用においてのみ全きを得るのである。』(245)(⇒およそ「関心」とはせんじつめれば「実践的関心」なのであって、理性的思弁の関心ですら、それがわれわれのいかに生きるかという問題に結びついているかぎりで、はじめて意義をうる。)

(☆⇒ここでの思弁的理性と実践的理性の「優位」についての議論の要点を、ほぼつぎのよう。思弁的理性からは、「心の不死」や「神の要請」といったことは、理性の正当な推論の限界を超えていて、客観的認識として証明することはとうてい不可能である。しかし、道徳性の原理の正当性については、実践的理性と思弁的理性は同じ原理でこれを認めてよい理由をもっている。実践的理性は、この道徳性の原理から「最高善」を推論し、また最高善の理念から、その可能性の原理として「心の不死」や「神の現存」を推論する。これに対して、思弁的理性は、この実践的理性の推論を客観的認識としては認めないが、しかし、理性の実践的関心の不可欠な帰結であることは認めて受け入れることができる。純粋な理論の態度としては、心の不死や神の現存は客観的認識として証明されえない。しかし、思弁的理性といえども、いかに生きるべきかという問題において、実践理性が生み出すこの理想理念の要請がわれわれにとって必然的な要請であり、また理論的な認識とはいえないことは認めざるをえないからである、と主張されている。)

 

四 純粋実践理性の要請としての心の不死

 

『君の意志の格律が・・・・』という道徳的法則にしたがって人間が生きようと意志することは、論理的には「最高善」の状態を実現しようとする目標に帰結する。またこの場合の意志は、『心意が道徳的法則に完全に一致することをもって、最高善の最上の条件としている。』(246)すなわち、最高善の実現は、人間の心意がつねに道徳的法則と完全に一致するような状態の実現を意味している。このような心意と道徳的法則の完全な一致の状態をわれわれは「神聖性」と呼ぶことができるだろう。それは理念としては存在するが、生身の人間においては到達しえないような完全性の境地である。しかし、にもかかわらず、この完全な一致の状態が必然的なものとして要請されるなら、その可能性は、ただ人間の心意と道徳的法則との『完全な一致を目指す無限への進行のうちに』、見出されることになるのである。だがまた、このような完全な一致を目指す努力の「無限の進行」は、一人の人間の人格(心=魂)が無限に存続するということを前提とする。つまり最高善の実現があるとすれば、それは人間の「心の不死」(魂の不死)を前提としてはじめて可能となるのだ。こうして、「心の不死」は、実践的理性が道徳的法則と結びついているかぎり、「純粋実践理性の要請」となるのである。(⇒「要請」とは、その事実については証明できないが、実践的観点からすれば理論的に必然的であるような命題を意味する。)

さて、目標に向かっての無限の進行のうちにおいて、人間の心意と道徳的法則との完全な一致の可能性がなければならない、というこの実践理性の「要請」は、ただ客観認識をこととする思弁的理性の無力を補うだけでなく、宗教的な観点からもきわめて重要な意義をもっている。もしこの要請がなければ、われわれは安易な気持で道徳的法則を何か寛容なものと見てその「神聖性」を見誤ったり、あるいはこの完全な一致という目標の実現を性急に求めて、狂信的な神智学的夢想に陥ったりして、結局この理性の厳正な命令への不断の努力という目標をもてなくなるからである。

われわれ有限な存在者である人間にとっては、道徳的完全性を目指して、低い段階から不断により高い段階へと進むべく絶えず努力することだけが可能である。そして、時間を超越した無限者である神は、この無限の時間の系列の中で人間の心意と道徳的法則の完全な一致に配慮しており、われわれ各人の努力を正しく知り、それに応じて最高善の「分け前」を公正に配分するはずである。こうして、有限なる存在であるわれわれが神の御心に適おうとするなら、ただ自らの道徳的心意にたゆまず配慮する以外にはない。したがって、この道徳的心意への配慮は、つねに悪を嫌い、道徳的な善を目指す努力を積み重ねるだけでなく、そのような態度と心意を、「この世を越えても」持続しようとする決意にともなわれねばならない。それは、遠い未来のどこかの時点で道徳的完成を実現するためというより、神のみが知る無限の彼方において神の神聖なる意志と合致せんがためなのである。

 

五 純粋実践理性の要請としての神の現存

 

われわれは道徳的法則から最高善の概念を導き、そこから現」われる道徳性の完成という第一の課題を解決するために、「心の不死」という要請を導いた。つぎに第二の課題として、道徳性に値するものとして「幸福」の可能性について考えよう。あらかじめいえば、ここで要請されるのは「神の実在」という理念である。なぜだろうか。幸福とは、人間がその欲望を思い通りに実現し満たすことができるという状態であり、つまり人の意欲と自然状態との一致を意味する。しかし道徳的法則から現われる意欲は、そのような自然との一致とは何のかかわりももたない。つまり、道徳的法則は人間存在に「徳」を与えるが、その徳に値する「幸福」をもたらす保証もまったくもっていない。

こうして、「道徳」と「幸福」は一致する保証をもたないが、にもかかわらず最高善の理念からは、「道徳」と「幸福」の一致の可能性があるのでなくてはならない。もしそうでなければ、最高善は単なる空疎な理念となってしまい、「道徳」にとっての高遠な目標たりえない。それゆえ、最高善の理念が可能性として確保されるためには、道徳と幸福とを一致せしめるなんらかの「原因」の存在が要請されることになる。このような「最上原因」、つまり『自然と理性的存在者(⇒人間)との一致の根拠』、つまり精神的存在の最上原因であるとともに自然の最上原因でもあるような存在は、この自然と精神の調和を自ら意志する叡知者であり、そのような存在をわれわれは「神」と呼んでいるのである。

(☆⇒この「自然と人間の一致」とは、すべての人間が道徳的生き方を心がけるなら、いつの日かこの世からすべての矛盾が解消し、全世界が自然としても精神としても美しい調和の状態へと進んでゆくことを「神」が保証する、ということを意味する。)

したがって、われわれが理性によって導いた最高善の理念の要請は、とりもなおさず『根源的最高善の現実的存在――すなわち神の実在を要請すること。』(252)を意味する。最高善を目指すことがわれわれの義務であるかぎりその可能性を前提することはこの義務と結びついた必然性である。そしてまた、最高善は「神」の存在という条件によってのみ実現の可能性をもつから、神の「想定」あるいは「要請」は、われわれの道徳的な必然性であるともいえるだろう。だがこのとき注意すべきなのは、この「道徳的必然性」は主観的なものであって決して「客観的」なもの、「義務」それ自体ではないということだ。ここで求められているのはあくまで神の存在の「想定」であって、「神」の存在がわれわれの責務を生じさせる必然的な根拠として現実に存在する、というのではない。道徳的義務はあくまでわれわれの理性の自律にもとづくものでなければならないのである。(☆⇒この言い方はやや分かりにくい。まず、「神の存在」を客観的事実として認めるべきというのではなく、ただ道徳的心意として想定されるべきだということ。つぎに、われわれが道徳的義務をもつのは、神がそれをわれわれに課しているからと考えるべきでなく、道徳的義務はあくまで理性の自発性にもとづくべきである、ということ。)

われわれが最高善の実現をめがけるべきだとすれば、その可能性の根拠として「神の存在」を想定する以外にはない。また義務は道徳的法則からやってくるが、それは最高善という目標を必然的にもたらす。ここから、「神の想定」が道徳的な義務の意識と結びつくのだ。だから、「神の存在」は客観的認識ではなくあくまで一つの「仮説」なのだが、道徳的観点からはこれを純粋な「理性的信」と呼ぶことが許されるだろう。

こう見てくると、いまやわれわれは、古代ギリシャ哲学が最高善の可能性の問題を十分に解決できなかった理由をよく理解することができる。ギリシャの諸学派は、最高善の問題を考えるにあたり、「神の存在」という概念を考慮に入れることなく、ただ人間の理性と自由な意志との関係から道徳の原理を導くことによって、これを解決できると考えた。意志の自由を道徳の根拠とする考えはなるほど妥当であったが、しかしこの考えのみによっては、「徳福一致」の難問が解けないということに彼らは気づかなかったのだ。(中略)

 

六 純粋実践理性一般の要請について

 

三つの要請「自由」「不死」「神の現存」はすべて道徳的法則から現われたものであり、そのかぎりでこれらの要請がわれわれの理性の自由な意志を律するのでなければならない。しかし、これらの要請は、なんらかの教説(ドグマ)ではなく道徳的法則からの必然的な帰結であるから、これを客観的認識の拡張と見なすことはできない。しかしそれでもこの要請の考えは、思弁的理性が想定しておいた諸理念(心、自由、神)に対して、ある論理的な正当性を与えるものとなる

第一の要請、「心(魂)の不死」は、人間の魂が、時間の無限の歩みのなかで道徳的法則と完全な一致にいたる可能性の条件をなしている。第二の要請、「自由」、つまり感性界ではなく可想界としての人間の原因性は、人間が自律的に、つまり自らの自由な意志において道徳的法則に完全に一致する可能性の条件を意味し、最後に第三の要請「神の現存」は、道徳と幸福の完全な一致、すなわち最高善の実現の可能性の条件を意味するのである。これら三つの要請を通して、はじめてわれわれは、思弁的理性の考察(『純粋理性批判』)では解決できなかった三つの根本概念を解明することができるのである。

第一は、心の実体性に関する「誤謬推理」である。『純粋理性批判』において心の実体性は証明不可能な推論にすぎなかったが、いまや「不死」の要請をおくことによって、「心」の実体性をとらえることができる

第二は、「自由」の存在に関する「アンチノミー」である。思弁的理性においては、われわれはそれを「可想界」という想定において蓋然的に理解するにとどまった。だが実践理性では、「自由」の要請を通して、また道徳的法則の概念を通して、「可想界」の現実的な概念規定に達することができた。

第三は、「神」の存在について、思弁的理性においてこれは、単なる「先験的理想」として想定されるにすぎなかった。しかし実践理性においては、これを道徳的法則の見地から、「可想界における最高善という最上原理」として意義づけることが可能となったのである。

しかし、何度もいわねばならないが、この「要請」の概念によってわれわれは、「心の実体性」「自由という原因性」「神の実在」という問題について、「客観的な認識」を拡張したしたわけではない。ここでは、いわば超越的だった諸概念は内在的なものとなったのであり、言い換えれば、実践的な見地においてとらえ直されたということなのである。われわれはこれらの諸概念の本質を、道徳的法則の概念、したがって最高善とそれをめがけるわれわれの意志の自律(自由)という概念から、一体のものとしてとらえ直した。だが、それらの存在を「客観認識」にもたらしたのではない。たとえば、世界についての宇宙的理念(起点があるか、限界があるか)と同様、「自由」それ自体がなぜ、いかに可能になっているのかは、依然として人間の理性では答えられない問題としてとどまる。しかしそれにもかかわらずわれわれは、道徳的法則の見地から、人間の「自由」が存在すべきであり、同様に不死や神の存在についてもそうあるべきであることをいまや深く理解する。思弁的理性がこれに対してどれほど理論的な懐疑をおこうとも、この道徳的理念に対して、「極く普通の人間ですら懐いている確信」を決定的に揺るがすことはできないことを、いまやわれわれははっきりと知るのである。>(同書p167~179)

 

 

カントの「要請」概念について。(~『カント事典』〔弘文堂〕)

 

<要請[(独)Postulat] 【Ⅰ】経験的思惟一般の公準

様相のカテゴリーに関する一連の純粋悟性の原則のことで、この意味では「公準」の日本語が当てられ、「経験的思惟一般の公準」の名称が当てられることが多い。カントによれば様相のカテゴリーは「それらが述語として付加される概念を客観の規定としていささかも増大するものではなく、認識能力との関係だけを表現する」[A 219/B 266]ものである。そして様相の原則は、他の純粋悟性の諸原則同様、このカテゴリーを可能的経験とその綜合的統一だけに関係させ、そのかぎりで「対象概念の産出」というかたちでの対象概念と認識能力との関係を表現するのである。ところで数学における「公準」は「われわれがそれを通じてある対象をまずわれわれに与え、それからその対象の概念を産出する綜合以外のなにものも含んでいない」(A 234/B 287)ような実践的命題を意味するが、かかる命題は、それが要求する手続きによってはじめて対象の概念が産出されるようなものであるために、証明されることはない。様相の原則が「公準」と呼ばれるのは、こうした数学における「公準」にならったものであり、それがある概念について「それが産出されるところの認識能力のはたらき」[同]を述べるものであることによる。この原則に関して証明が付せられていないのも、数学における「公準」と同様である。こうした事情をカントは、様相の原則は「主観的にのみ綜合的」[A 234/B 286]である、という言葉でも表している。

(以下、省略)

【Ⅱ】純粋実践理性の要請

理論的命題ではあるが、それがアプリオリで無条件的に妥当する実践的法則と不可分に結合している限りで証明できない命題[vgl.KpV,V 122]を意味する。カントによると、意志を直接に規定する定言命法によって実践的に必然的なものとして表象される意志の対象としての目的、すなわち最高善が与えられている。しかしこの最高善は道徳性と幸福との結合を意味し、かかる結合は単なる純粋理性概念であるような理論的概念を前提しなければ可能ではない。それは、「自由」「不死」「神」の三つである。そこで、最高善の現存を命ずる実践的法則はこれらの客観の可能性すなわち客観的実在性を「要請」する、とされるのである[vgl. KpV,V 134]。これが「純粋実践理性の要請」と呼ばれるものである。この場合、「神」と「不死」の理念は、要請としてはもはや「私は何を知ることができるか」という問題ではなく「私は何を希望することが許されるか」という問題にかかわるものとして拡張されるのであり、「信憑」としては「知」ではなく「信仰(Glauben)」に分類される。ただし、自由のと概念については「信仰」に分類されることはなく、『判断力批判』などではむしろ「事実に属するもの(res facti)」とされる[vgl. KU,V 468]。自由の理念と他の理念との位相の相違については『実践理性批判』の序文でもふれられ、神と不死の理念が道徳的法則によって規定された意志の必然的客観(最高善)の条件であるのに対し、自由の理念は道徳的法則の条件であるとされている[vgl. KpV,V4]。要請は、理論哲学と実践哲学との両方に関わる。すなわち、理論哲学において認識の体系的統一の完成を意味する無条件的なものの概念でありながら積極的な認識をもたらすものでなかった純粋理性理念を、実践哲学における必然的前提とすることで実践的な意味で、つまり道徳的法則との関係において拡張する。この拡張が可能であるのは、この場合の理性使用において実践的関心が優位にたつことによる(実践理性の優位)。しかし、この拡張によって理論的連関における認識が拡張されたことにはならない。なぜなら、この拡張によってこれらの概念が実在的であるということは主張しうるが、しかしその際に客観の直観はまったく与えられないからである[vgl. KpV,V135]。これを要するに、要請は感性的なものに関してのみ可能である理論哲学と超感性的なものに関わる実践哲学の境界を踏み越えることなく両者を体系的に連関させるものであると言うことができる。こうした考え方は体系的統一の観点から多くの解釈者たちの関心を早くから集めたが、他方で絶対的なものの把握としては「信仰」という主観的なものにとどまっているといった批判(ヘーゲル)も寄せられている。

【Ⅲ】実践理性の法的要請

『人倫の形而上学』第一部「法論の形而上学的基礎づけ」でカントはまず「仮にある格率が法則となった場合にこの格率に従えば選択意志のある対象がそれ自体として(つまり客観的に)無生物(res nullius)とならざるをえないものとすると、こうした格率は違法である[VI246]という命題を「アプリオリな前提」としてたて、ここから可想的な占有(possesio)を推論し、そこから権利の概念へとすすむ,という議論を展開している。

 

 

(以下は雑記)

 

 

 

 

序文 キーワードは・・・

 

「絶対」と「超越」と「天地創造」と「人格」。

 

「実践」と「要請」と「自己限定」と「知止」。

 

<意思の行為はことごとく自己限定の行為である。ある行動を望むとは、すなわちある限定を望むことなのだ。(中略)何物かを選ぶことは、他の一切を捨てることである。>

 

(~ギルバート・ケイス・チェスタートン

 

http://todays-list.com/i/?q=/naVajbgb/1/4/ 

 

 

 

   要請される「神」

 

「共同主観」、「神の自己限定=啓示」

 

フッサールの哲学においては「間主観性」と「共同主観性」とは同じことらしい(検索すると別に、「相互主観性」という用語もあるようだ)。

 

http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ka_intersubjectivity.html 

 

主観性というのは、人間の意識をあくまでも個人的なものとして捉え、他の人間との関係を捨象してしまうことであり、観念性というのは、世界の存在を人間の意識の相関者として矮小化することであり、抽象性というのは、ひとりひとりの人間が生きている社会的・歴史的繋がりや制約を、それが全く無視していることをさす。社会的・歴史的な制約のなかで具体的な生を生きている人間を、あらゆる制約から自由な抽象的な人間と取り違えているわけである。
こうした問題については、フッサールも一定の理解を示していた。かれの「間主観性」という考え方は、人間が孤立した抽象的存在ではなく、他の人間との関わりにおいて生きる存在だということをとりあげたものだ。しかし、フッサールは「間主観性」を、ひとつひとつの抽象的な主観性から出発して説明しようとした。しかし、ひとつひとつの抽象的な主観性(意識)が、どのようにして意識の共同体である「間主観」的な世界を形成するようになるのか、その筋道は明確にはならなかった。明確になったのは、人間というものは孤絶して存在しているものではなく、他の人間との間で共同体を作らずにはおれないという事実だった。哲学といえどもこの事実は軽視できない。フッサールが言ったのはこのことだったわけである。しかし彼は、そういっただけで、個人と共同体とのかかわりについて、スマートなモデルを構築することはできなかった。それゆえ彼は、新しい哲学の開拓者と言うより、古い哲学の後継者と言ったほうが相応しい。
廣松も、人間の意識から出発して世界の存在構造を明らかにしようとする点では、フッサールの問題意識と共通するところがある。そして、フッサールがそのキーワードとして使った「間主観」という言葉の代わりに、廣松は「共同主観」と言う言葉を使う。だが、廣松が「共同主観」という言葉で意味したものは、フッサールのそれとは大分異なっている。フッサールの場合には、一人ひとりの個人の意識が連帯して意識の共同体を作るという道筋になっているのに対して、廣松の場合には、人間の意識には当初から、すなわちアプリオリに共同体的な性格が刻印されていると考えられている。無論その刻印は、先天的になされるわけではなく、後天的に獲得されるものであり、その点で、厳密な意味でアプリオリとは言えず、アポステリオリな性格が強いが、それだからといって、人間の認識を運命的に制約していることにかわりはない。

 

https://philosophy.hix05.com/Japanese/Hiromatsu/hiromatsu11.sekai.html 

 

 

 

信仰というものが主観的なものであり、同時に「神」から与えられる「信心」としての受動的・恩恵的なものであることを聖書を根拠に前提することができるなら(単なる主観ではなく「共同主観」であり、それが「共同」たり得るのは「信仰」が「神の賜物」だからである。聖書的信仰の、この「共同主観」と「受動的・恩恵的」という2つの特性は相関関係にある)、「神」をこの実存的現実(各個人における対神関係)抜きに一般論的に問うところの(「ヤフー知恵袋」の宗教カテに多くみられるような・・・)聖書の神に対する誹謗中傷的な(無信心者の)意見は、まったく意味をなさないことになる。聖書的信仰の上記の二大特性が十分考慮されているとは言えないが信仰を「主観的なもの」としているのが下に引用する上村静氏である。上村氏の持論は結局、「<いのち>(神)」体験主義であり、八木誠一氏の言う場所論的神学の類であろう。だから「恩恵的」視点が弱いのは人格主義的観点を欠くからである。私の立場とは神観を異にする。しかし信仰論的には通じるものがある。

 

『信仰』は徹底して個人的・主観的なものであって、たとえその当人がキリスト神話を事実だと信じていると主張していても、その『信仰』は客観的な事実にもとづいているわけではない。・・・・キリスト神話は、神がイエス=キリストを通して『歴史』に介入したと語る。それが『歴史』的な出来事であるとされているがために、キリスト教はこれまでその客観的な史実性を自らの唯一絶対の『真理性』の根拠、『普遍性』の根拠にしてきたし、信徒もまたそのように信じているものと思いこんでいる。しかしながら、そもそも今日にいたるまでのキリスト教を形成してきた信徒ひとりひとりの『信仰』は、実はそうした客観性などにはもとづいていないし、その必要もない。」(『キリスト教の自己批判』〔新教出版社〕p114115

 

たしかに「信仰」は「個人的」なものではあるが同時に「共同的」なものでもある。「個人的・主観的」なものにとどまったら聖書的信仰とはならない。聖書が示す「神」はあくまでも共同体の神であり、その共同性を象徴するものが「三・一」なのである。すなわち「三・一」は神論ではなく神人関係論である。したがってその「一体」とは「神の本質」の同一性を意味するものではなく(それこそが神話であって、現代的意味は神の共同性を象徴する「定式」にしか認め得ない。すなわち実体論的三一論は批判される)、「神」自らが共同性を体現しているということ。従って具体的にはイエスはあくまでも人であり、「神」の共同性はイエスに付与された「キリスト」すなわち「ロゴス」(神の言)との関係、および「聖霊」(神の霊)との関係である。それらが「唯一の神」であるが分節可能であるのは、神の言も神の霊も、働きとして人間に自覚される時、それは人格性を(比喩的に)帯びるからである。

 

もちろん、上村氏は倫理的には共同性(共生)を重視して指摘しておられる。

 

「キリスト神話は、人間に対する神の無償の愛(「罪の赦し」)を語る。それは自己愛の根拠であり、それゆえにその応答として神への愛、他者への愛が生じてくる。この神話の内実は、関係のなかで生かされて在る<いのち>という洞察である。それは他者との比較によらない存在肯定の<絶対根拠>を提示する。人間は、存在するだけで、何をするかしないか、できるかできないか、何者であるかといった属性とは無関係に、世界史上に唯一の者として、すでにありのままで肯定されて在ったのだ。このことに気づくとき、エゴイズムを克服することができるだろう。この洞察は、自他の<いのち>への畏怖と敬意ゆえに、他者との共生を志向する。自己愛があってはじめて他者への愛、被造物への愛が生じるのであり、それが創造主たる神を愛するということだ。」(p116118

 

このあたりは八木誠一氏の影響を感じる。

 

認識論的信仰論においては、信仰はパスカルの言うような意味での「賭け」ではない。なぜなら「信仰」は「認識」と違って恩寵なので、ハズレることはないからだ。

 

「キリスト教は『イエス=キリスト』を伝える。しかし、『イエスがキリストである』という事態は事実なのだろうか。事実というのは『信仰』の対象ではなく認識の対象である。事実であると信じる信仰というのは、賭け事としての信仰であり、もしかしたら事実ではないかも知れない可能性を前提とする。つまり、事実への『信仰』は不信を内包しているのである。そしてその不信を払拭するために信仰熱心を演じることになる。だが、『信仰』とは本来『信頼』であり、『安心』であり、自己の存在肯定であるはずだ。」

 

(上掲書p110

 

 

 

 

 

 

「絶対(他)者 ~脱虚の実践的「神」論~」というタイトルの本は、自分のブログ「全一者」を参照して書く。電子書籍による低コストでAmazonから売る。

 

(序)信・望・愛の(精神安定)人生のために実践的・実存的に要請される神観。

 

  「要請」と「実践」とは不可分である。

 

「要請」とは、その事実については証明できないが、実践的観点からすれば理論的に必然的であるような命題を意味する。

 

https://doukousya.jimdo.com/%E8%A6%81%E8%AB%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B-%E7%A5%9E/ 

 

宗教における「実践」の意味は必ずしも倫理・道徳といった「対人」関係の行為に限らず、「対神」と「対自」の両関係における行為。前者では礼拝や祈り。後者では生活全般であり、その生活の基盤となる精神の安定など・・・。

 

 

 

つまり『純粋理性批判』は、「純粋思弁理性を制限する批判であると同時に、純粋理性の「実践的拡張をも保証する批判であった。そしてカントは、そこでさりげなく付け加える。「それゆえ私は、信仰に場所を得させるために、知識を廃棄しなければならなかった」、と。この言葉は、それまで「知識」とか「信仰」についてなにも語られていないから、一見唐突に見える。いったいここで廃棄されなければならないとされる「知識」とはどのような知識であり、また場所が与えられるとされる「信仰」とはどのような信仰なのであろうか。前後の脈絡からすると、廃棄されるべき「知識」とは、旧来の独断論的な形而 上学が超感性的なものについて主張する寸法外な洞察」であり、「見せかけの知識(メツサ)であって、「信仰」とはそうした見せかけの知識によって障害を蒙りかねない超感性的なもの(特に神)に対する宗教的(キリスト教の)信仰である、とも考えられる。だがそれならば、カントはなぜ法外な知識もしくは見せかけの知識を廃棄すると言わないで、端的に知識を廃棄すると語るのであろうか。しかもこの箇所の原文は、・・・・・であって、これは「それゆえ私は、信じることに場所を得させるために、知ることを止めなければならなかった」とも読める。またもしここで語られていることが、理性の思弁的使用の制限からその実践的使用への拡張を、したがって思弁理性から実践理性への移行を告げていると見るならば、知ることを旨とするのはもっぱら思弁理性であり、これに対して実践理性は「知ること」を止めてもっぱら「信じること」を旨とするとも読めるであろう。実は私はこのように読みたいが、しかしはたしてこの言葉をこのように理解してよいであろうか。それが理性である限り、その実践的使用において可能となる実践的認識において、実践理性といえども、は、依然として「知ること」を必要とするのではなかろうか。もし実践理性にとって、「信じること」が本来の眼目であるとするならば、その場合に「信じること」と「知ること」とは、お互いにどのように関連しあうのであろうか。(~宇都宮芳明氏の論文「カントと理性信仰」)

 

 

 

宗教における「実践」の意味は必ずしも倫理・道徳といった「対人」関係の行為に限らず、「対神」と「対自」の両関係における行為。前者では礼拝や祈り。後者では生活全般であり、その生活の基盤となる精神の安定など・・・。

 

 

 

「神」については客観的にどのように説明されているかを学ぶことが主旨ではない。いくらユダヤ・キリスト教およびイスラム教で歴史的に「神」が説かれ定義されてきているにしても、問題は自分自身が実存的にその「神」との関係を生きることができなければ意味がない。それすなわち、自分自身が生きる上で「神」との関係にどのようなことを必要とするか?である。「必要」は発明の母であると同時に信仰の母でもある。実存的な信仰はすくなからず要請されて成り立つものなのだ。その正当化の根拠として「実践」ということが言われる。「実践」(practice)は、哲学の概念としてはアリストテレス~カントの流れの「哲学で、
㋐人間の倫理的行為。アリストテレス用法で、カントなどもこの意味で用いる」とある。しかし「実践」は「多種多様な形態をもつ。またどの分野の実践が重視されるかは古来から思想傾向によってそれぞれ異なっている。宗教家は宗教的実践を第一に重視し,心情や意図よりも社会的効果を重視する政治家にとっては政治的実践が決定的要素となる」とある。

 

 

 

「実践」にもいろいろあるわけで、倫理・道徳の行為ばかりがそれではない。用は生きるために役立つことならよいのだ。矢内原忠雄氏はまず「絶対、唯一、人格」といったことが要請されて、これに合った聖書解釈が施され、キリスト教会の教義である「三位一体」は認められてはいるが、あくまでも「一」に重きが置かれている。要請的信仰は聖書という規制なしには恣意に堕し偶像崇拝に陥るが、規制が強すぎるとルター派の「紙の教皇」のごとき信条主義ないしは原理主義のような硬直した宗教になり、「神」を信仰しているというより教会組織を盲信しているといったことになる。その反動の敬虔主義など体験重視は神秘主義に近づく。

 

それはまたそれでよろしくない。

 

だから主題は「絶対者」などよりも「要請される『神』」とでもするほうが内容に合う。そのためにはカントの理性信仰をある程度は理解しておく必要がある。

 

「カントによって中世以来の神の存在の証明が根本的に批判され、純粋理性によるその証明が拒否され、神は実践理性によって要請されるのみであるという道徳的証明だけが妥当するものとされた。」(高尾利数~『教義学講座 Ⅰ』p124125) 自分はその「実践理性」による要請の領域を道徳のみならず生活全体にまで拡げて理解する。これは矢内原氏の考え方と通じるはず。

 

 

 

 序

 

(1章)信仰の「共同主観」性・・・聖霊論の神論・キリスト論に対する先行性

 

・・・ウ信条の例。リベラル的立場では、復活イエス顕現の500人目撃証言が示すこと・・・もちろん客観的事実(史実)ではなく説話。

 

   「啓示(認識)」の「非・客観性」・・・聖書解釈の問題。

 

   「神認識とは、神との交わりである」(高尾利数氏前掲書p122)。

 

    人生において何よりも重要なことは、対神関係の現実なのである。

 

    信仰(心)という(共同)主観なしに、「神」については何もわからない。一般人の科学(客観)的見地からの混同による神義論的問い。

 

(2章)矢内原忠雄の「絶対、唯一、人格・・・神の本質」。

 

  「絶対主義的天皇制」、「国体の本義」などにもふれて・・・

 

(3章)量の哲学的「有的絶対者」と宗教の「無的絶対者」、「絶対無→非人格」。波多野精一へのユニテリアン批判の是非。「絶対的実在」。

 

(4章)小田垣・西谷の「絶対無・・・人格・・・生きられうるもの」

 

(5章)野呂の「絶対」と「究極」、佐藤研の神(絶対)人間(相対)の各区別。

 

   これに小田切信男の「絶対」に関する考えを入れ込む。

 

(6章)八木の「絶対他者即絶対自者」他。

 

(7章)「即(非)の論理の禅的・神秘主義的詭弁性について」

 

   大拙の「即非の論理」ないしは「無分別の分別」などの(宗教)哲学的ロジックは「大乗仏教」ないしは「民衆の宗教」という観点からすれば「考え過ぎ」であり、抽象的すぎてわけがわからない。エリート主義ではなく民衆救済の宗教のロジックは「分別知」にとどまるべき。

 

   (例話)養賢寺住職の非人間的な態度と修行僧の人間的な態度との対照。

 

   ただし「絶対受動即絶対能動ということ」は「西国立志篇」の自助にこそ天助が経験されるといった事柄として諒解される。

 

   http://annyouzi.click/wp/nishida-gyakutaiou1/ 

 

   なお、田中裕氏の論文「西田哲学とキリスト教」では、<即非の弁証法すなわち西田のいう絶対矛盾的自己同一が、自己と絶対者との関係について述べられるに先だって、絶対者自身の事柄として論じられ、「絶対の神は自己自身の中に絶對の否定を含む神でなければならない」ということ、「悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神である」という独自の神観が提示される。 西田の云う「即非の弁証法」は、キリスト教論に適用されることによって、日本化された仏教の典型である天台本覚論などの「煩悩即菩提」「生死即涅槃」のごとき絶対否定を含まぬ「即」の融通無碍の立場とは質的に異なる論理となっている。>と言われており、同じ「即」の論理にも違いがあるらしい。

 

 

 

(8章)結論

 

(おわりに)

 

 

 

松本正夫氏の論文「絶対他者と絶対自己の理念的対決」の中で、以下の文言から次の点を学び取れる。

 

 

 

超越的一神論のヘブライズムがユダヤ人の居留地(ディアスポラ)を通してヘレニズム世界に大きな波紋を拡げはじめたとき、フィロンはその思想運動の代表者であった。自然から神へ、形而下から形而上へ、様するに下から上へ向う本来のヘレニズム哲学の営みはここで、大きな変形を蒙り、上から下へ、神から自然へ、形而上から形而下への、要するに一者から世界が発出するという今までとは全く逆な、ヘブライズム神学に固有の方向が第一義的となり、ヘレニズム哲学に従来固有であった下から上への営みはここでは第二義的な還帰過程に組込まれるにいたる。フィロンは哲学的にはピタゴラス的なプラトン主義にたちながらも、旧約聖書の寓喩的解釈を導入し、極めて神学的な表現をもって自らの立場を展開したのであるが、これから二百年後プロティノスはこの同じ発出と還帰の体系を、表現上極めて哲学的に、すなわちフィロンに顕著であったヘブライスム的特色を一切払拭し、ヘレニズム哲学の完全な外装下にこれを再現し、いうところの新プラトン主義を体系として確立したのである。」

 

 

 

八木誠一氏のいう「絶対他者」と「絶対自者」との即の関係は、自我に自己が現れるといったことのようだが、「絶対他者」は「超越」性と不可分であり、「絶対者を超越他者とする」のが「啓示宗教」で「内在自己とする」のが「悟得宗教」であるとの対照からすれば、「絶対自者」とは後者である。

 

キリスト教神学自体、インドのウパニシャド・・・アートマンの思想の影響を受けているとするなら、それは肝心のキリストの神人二性一人格の教義にも及んできて、異教であるとかないとかは言えなくなる。

 

近代の人間中心主義がキリスト教を前提とし反立として成立したように、日本の絶対神的天皇観もまた、キリスト教を前提とし反立として成立した。

 

 

八木誠一氏の場所論的神学においては、「神」とは、「ただ絶対とか究極の存在とかいうのではない。『統合への規定』=『ロゴス』が、『神の支配』であるという場合のその神のことである。統合存在の究極の根柢(創造者)のことである。換言すれば人格同志に愛を命じ、愛を成り立たせる、神のことである。イエスが父とよんだ神のことである。決してそれ以外の神ではない。『統合への規定』を素通りし迂回して語られる神は無意味である。」(『キリスト教は信じうるか』〔講談社現代新書〕p201)

※「神の支配」の「神の」に傍点あり。

もちろん「絶対」とか「究極」ということも「神」の特徴として認めておられるのだろうが、要は、ただ単純にそれだけではない・・・という意味だろう。ちなみに私信によると、「根柢」と「根拠」との違いは「原因」と「理由」との違いと同様で、「存在(現実)の次元での『なぜ』」と「認識の次元での『なぜ』」との違いとのこと。

 

八木氏においては、「神」は「要請」されるのではなく、「神関係というものは、単純素朴にしか成り立たないのである。(中略)神はあるからある。単純素朴に信ずるとき、そのことが明らかとなる、と。(中略)『統合への規定』としてあらわれながら、なおそれとは区別される人格神を信ぜざるをえないのだ。もはや推論の問題ではない神はあるからある。単純素朴に信じていれば、ささやかな信仰の歴史の中で、その確信と信頼は深まってゆく、としか私には言いようがないのである。換言すれば、『統合への規定』は、厳密に認識すればやはりひとつのリアリティであるというより、『神の支配』なのだ。神は『信じられる』。しかしまた、『統合への規定』の認識を通して、『知られる』のである。」(同書p203~205)

「リアリティであるというより」とあるが、前には「神の支配(=復活のキリスト)は、『ヨハネによる福音書』1・1以下のロゴスと同じく、超越的なリアリティである。」(同書p66)と言われている。

現実(=厳実)を直視して突き詰めてゆけば、無神論的にはならず、さりとて単なる有神論的にもならず、人間を超越した「はたらき」としてのリアリティーを認めざるを得ないというのが、八木氏や滝沢氏の思想の根本にあるように思う。しかしそれはかなり理性が研ぎ澄まされた人の場合であって、多くの凡人は曖昧であり、都合の良い時は「神」に願い事をし、都合の悪い時には「この世に神も仏もありはしない」と呟くのである。

宗教信心の根本は「縁(えにし)」であろう。生得的なつながりであり「選び」であって、仏教の「縁起」も含めて全ての「法則」は創造主の摂理の中に用いられている。信心の「縁」なき衆生は度し難い。いくら神義論的な問いを立てても答えは得られず堂々巡り。「縁」ある者は疑問が「解決」せずとも限界状況を先取りする「末悟の信」においていつしか「解消」し、「信」の生活実践に乗り出せる。

 

「神への信がもたらすのは通常 ―― まずは ―― 自分に対向する『<神>に包まれている』という信仰的実感(中略)眼を閉じて太陽に面した人が太陽の光に『包まれている』と感じるようなことである。『神関係』はしかし、これで終わりではない。あえていえば、『対向する神』という捉え方には、『対向する自我』が滅びずに残っているかもしれないのだ。」(『』

 

 

 

八木氏は、「『統合への規定』としてあらわれながら、なおそれとは区別される人格神を信ぜざるをえないのだ。もはや推論の問題ではない。神はあるからある。」と言われる。これは、理性による神認識の否定を意味するだろう。なぜなら「推論」は理性の能力だからだ。「推論」は「要請」を含むので、八木氏はカントを批判しているとも言える。

 

「実践的認識とは、何かが『現にあるべきところのものを表象』(ibid.)し、その「制約は要請される」(ibid.)とする。この規定を、理性使用に関していえば、「理性の理論的使用は、或るものがあることを、ア・プリオリに認識するような理性使用」(ibid.)である。この後者の理性の実践的使用の推論を、カントは「要請(Postulatと呼ぶのである。」(森哲彦氏の論文「カント批判期の神問題」~名古屋市立大学大学院 人間文化研究科『人間文化研究』抜刷 第202014.2

 

あれかこれかではない。八木誠一氏や滝沢克己氏のように、現実を突き詰めていって事実として「ある」としか言わざるを得ない「神」を信じるというアプローチも正しいがそれだけではダメであり、やはりそこに「要請」という実存的アプローチも必要なのである。両者は矛盾せず相乗作用を及ぼす。この両アプローチによって人は対神関係を生き得るのであり、私は、「神学」としては「啓示神学」より「自然神学」の方に重きを置き、「神学」より「宗教哲学」(というより「宗教思想」と言う方が適している)の方に関心が傾く。但し、上に「聖書的」という限定が付く。そしてそれは「聖書的スピリチュアリズム」と不可分であり、「霊界」にもテーマが及んで然り。何故なら、イエスが告知した「神の王国の福音」とはすなわち、物質界の社会的価値基準を相対化し更に刷新し得る別世界の存在とその共同体的価値基準の実在を伝えることを中核とするからだ。それが歴史的現実には、イエスの宣教において逆説的に示されたのである。

 

<イマヌエル・カントは哲学を営む能力である理性の関心について、『純粋理性批判』において次のように述べている。

わたしの理性のあらゆる関心は(思弁的関心も実践的関心も)つぎの三つの問いに集約される。(1)わたしはなにを知ることができるか。(2)わたしはなにをなすべきであるか。(3)わたしはなにを望むことを許されるか

別の箇所では、ここの第一の問いに答えるのは「形而上学」であり、第二の問いに答えるのは「道徳」であり、第三の問いに答えるのは「宗教」であると述べている。そして、「人間とはなんであるか」という第四の問いを立てて、これに答えるのが「人間学」であると述べている。そしてさらに、最初の三つの問いは最後の問いに関わるのであるから、形而上学、道徳、宗教の全体を結局、人間学と見なすことができる、と述べている。カントは形而上学と道徳と宗教とを人間学としてまとめているが、最初の三者は並列関係にあるのではなくて、発展的関係にあるのであるから、人間学の中心は宗教である、と言ってもけっして失当ではないであろう。したがって、カント哲学は、全体として宗教哲学以外のなにものでもないという解釈も、あながち牽強付会とは言えないであろう。>(量義治著『宗教哲学入門』p21~22)

 

<波多野は宗教を定義して次のように述べている。

他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる――これが宗教であり、これが又生の真の相である。(上掲書二一六ページ)

宗教は自我において、自我よりして、自我の力によって生きるのではない。そうではなくて「他者に於て、他者よりして、他者の力によつて生きる」のであると言う。この他者は、観念的ではなくて実在的であり、相対的ではなくて絶対的である。宗教において自我が関わる他者は絶対的実在としての絶対的他者なのである。このような他者はふつう神と呼ばれる。宗教とは自我としての人間の絶対的実在としての絶対的他者、すなわち神との関係である。

神聖性

神は観念ではなくて実在である。しかも絶対的実在である。すなわち、神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。

それではこのような実在的絶対的他者なるものの特質はいかなるものであろうか。波多野は言う、それは「神聖性」である、と。(以下、略)>

(量氏前掲書p108~109)※「上掲書」とは、『宗教哲学』(『波多野精一全集 第四巻』〔岩波書店〕)。

 

仲保者論の欠落

総じて波多野宗教哲学の著しい特徴は仲保者論、キリスト教神学的に言えば、キリスト論が欠落していることである。波多野は次のように述べている。

若し現実に存在する諸宗教のうちに、絶対的他者と人間的主体との間を媒介する第三者を説くものがあるとすれば、その場合その第三者は実は第三者でなく神そのものであるか、さもなければ、神は実は神でなく、言ひ換へれば、神聖性は不徹底なるものにをはるか、に外ならぬであろう。

(上掲書四三三 ― 四三四ページ)

波多野はこの文章に注をつけて、「それ故、例へばキリスト教神学の説くキリストの神性は、神の神聖性の必然的帰結とさへいひ得るであろう」と述べている(上掲書四三四ページ)。しかし、キリスト教神学では、キリストは単性論的にではなくて、すなわち、単に神でも単に人でもなくて、両性論的に、すなわち神性と人性との矛盾的自己同一としてとらえられているのである。波多野においては、キリスト論だけではなしに、聖霊論も欠落している。言い換えれば、波多野宗教哲学は三位一体論的にではなくて、ユニテリアン的に論じられているのである。このことは、波多野宗教哲学が宗教一般の哲学であると言うならば、看過することができるが、キリスト教的宗教の哲学としてはやはり問題であると言わざるをえないであろう。>(量氏前掲書p122~123)

 

三位一体論的に論じたら宗教哲学ではなくキリスト教神学になるだろう。量氏の方が、宗教哲学的キリスト教神学になっているのである。「ユニテリアン的に論じられている」のは大いに結構!同じく「一神教」のユダヤ教やイスラム教にも通底し得るには「仲保者論の欠落」はむしろ当然であろう。第三者を立てれば、それは神そのものか、無神論になるということなら、第三者は立てる必要はない。新約聖書の物語においては仲保者キリストには「神」の性質があり、それは現実世界のこと、つまり歴史上の事実の「History」ではなくて、あくまで「His Story」たる物語の中での話なのだから別に認めても良い。 

 

ところで、西谷啓治氏や小田垣雅也氏の説く理詰めの「絶対他者なる人格神」の問題点は、「他者」とは言われながらも実は波多野氏の言う「自我の内に吸収され解消される」観念であるということ。しかもそれを生ける神というか生き神のように言い放っていることだ。それが「生きられ得るのみの無」ということである。これは量氏においては「無的絶対者」ということで処理できるのだろう。すなわち、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(量義治氏前掲書p190)さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(同書p292、293)と指摘されているからだ。これに対して一神教のユダヤ、キリスト、イスラムの諸教における絶対者は有的絶対者であると言い切るならまだしも、キリスト教とイスラム教の絶対者はそうではなく、特にキリスト教の絶対者はまたしても三位一体論を持ち出すことにより「絶対有即絶対無なる神」などと嘯いている(同書p191)。これこそ「人生の神学」と懸け離れた哲学者の神学にほかならない。わけのわからない用語は「人生の神学」では非実践的であり無用として排除される。

人間の主体性において能動的に生きられるようなもの、それも(「絶対」と付くにせよ)「無」と表現されるようなものが、どうして「人間の外に存在する絶対的実在」とか「自我としての人間に対して立つ絶対的他者」などと言えるであろうか!「絶対的実在」とは「有りて有る」と「有」が強調されるべき「神」なのだ。これは理屈ではなく賛美の信仰告白なり!西谷氏や小田垣氏には「神聖性」の理解が不十分、すなわち人間存在の原罪性の感覚と認識がそれこそ欠落しているのである。だから「神」に対して(いかに理屈があろうとも)「無」などという言葉を当てて平気でいられるのであろう。そして量氏には、キリスト論に吸収・解消し得ない神論の特質が軽視されているようだ。だから彼の「無信仰の信仰」論は、もともと放送大学のテキスト(『宗教の哲学』)であったこの『宗教哲学入門』にまで述べられているが、おこがましいと言わざるを得ないし、その問題設定すなわち、「わたしは無神論・ニヒリズムの現代における真の宗教の可能性は『いかにして無信仰の信仰は可能であるか』という問題にかかっていると思っている。(中略)われわれはどうして神が無い時代に神と共に在りうるのであろうか。アウシュヴィッツを見よ。広島・長崎を見よ。そこに神はいたか。世界全体がますます混迷を深めつつある今日、神はわれわれと共にいるのか。」(同書p33)といった考え自体が、まさに形而上学的思弁的なのである。宗教者というのは、理屈のレベルでは山ほどの疑問を抱きながらも、生得的に与えられている「縁(えにし)」によって何故なしに、理屈ぬきに、「神」を信仰し得る、信仰せざるを得ぬ、そんな存在者なのであり、それは新約聖書における、罪人がキリストと共に十字架に磔にされて古き自我に死ぬという物語に象徴的に示されることである。信仰を賜った者は「神」の前に磔にされているのであり、古き自我が生きている限り、いかに神義論的な深い疑念を抱こうとも、それでも「神」との関係から出ては生き得ないことを自覚しているのである。量氏の場合はとにかく、屁理屈が多すぎる。そのわりのは学習不足で、同書p60で、ルカ福音書9:20を「神からのメシア」と訳しているが、荒井献氏が「神のキリスト」と訳して「この呼称には、ルカのイエス理解が適確に言い表されている。(中略)ルカのイエスは神に従属する『神の子』なのである。」(『イエス・キリスト 上』〔講談社学術文庫〕p183.下巻p349参照)と指摘しているとおり、ここの属格は「から」を入れずに訳す方がより適切なのだ。

 

ちなみにカントが名付けた「実践理性の要請」の要請(postulat)とは、カントが古典数学から借りてきた概念であるという。そしてそれは、「演繹体系の構築に必要な、明証的でも明証的でもない命題」を意味し、もともとはラテン語の動詞postulare(要求する、要請する)に由来する語であるという。「要請」と訳される言葉は「公準」(postulate)とも訳される。

(参考URL)

http://ntaki.net/di/Te/ya-wa.htm

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7741518.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095523435

 

<要請はあくまでも純粋実践理性の要請であるのだから、要請の衝動そのものは純粋実践理性にその源泉を持つことになる。(中略)実践理性のこの要求を思弁的理性が理論的に容認するのが第二『批判』で述べられる「純粋実践理性の要請」ということなのだが、このときの思弁的理性の働きは、第三『批判』における二世界の統一に根拠づけられた反省的判断力の統制的使用によって学的に正当化されるわけである。(中略)

これまでのところ、この「純粋実践理性に直接由来する(神の現存および魂の不死の)要請の要求」ということが実質的にはいかなることであるのかがまだ明らかにされていない。(中略)カントは「目的論的判断力批判」の「方法論」第八六節の注(すなわち第八七節での神の現存在の道徳的証明の直前の箇所!)において、自分の心が道徳的感覚との調和の瞬間のうちにある人の例を引き合いに出し、その人が美しい自然に取り囲まれてその現存在の静かで晴れやかな享受のうちにあるとすれば、彼はこのことを誰かに感謝したいという欲求を感じ、また他の場合において彼が義務の履行に迫られているとき、自分がこれと同じ心情状態にあることを認めるとすれば、彼は彼と世界の原因であるような、ある道徳的英知体、すなわち神を必要とする感情を持つと述べる。これは明らかに、直接には美について構成的な構想力の立場、それゆえ全人的な心の立場からとらえられた道徳の実現の問題領野における、全体的な心の状態の事実、人間の実存の事実であると言える。(中略)第二『批判』における神の現存および魂の不死の要請とは、純然たる思弁的意図に基づいた、理念の単なる統制的使用に尽きてしまうものではない。第二『批判』「弁証論」において、理性の純粋実践的能力(要請)において、三種の理念が内在的、構成的となると述べられるのも、この観点から理解されるべきであろう。>(来栖哲明氏の論文「カント『実践理性批判』における神の現存在の要請について」~「九州大学『哲学論文集』第四十二輯」)

 

「若しこの『最高善』の実現を感性界において全面的に不可能として断念し、その実現のための必須条件を、もっぱら可想界における『不死』と『神』とのみに期待しようとするのが道徳から宗教への飛翔であるとすれば、このような飛翔はやはりカントが思弁理性の立場を堅持することによって防止しようとする『狂信』の類にほかならず、和辻とともに俄かに釈然としかねる感を抱く人の少なくないことは当然であろう。このような『不死』と『神』 とへの一種の逃避は、おそらくヨーロッパ社会の長いキリスト教的伝統のうちに深く根ざしているものであろうし、また、ひとりキリスト教にかぎらず、いわゆる宗教一般の陥りがちな素朴な願望と見ることができるであろう。そしてそのかぎりにおいて、カントが、理論理性の立場を前提しつつも、『不死』と『神』とを純粋理性の要請としてその実在性の想定を取上げ、しかもそれに対する『狂信化』を阻止しようとした苦衷を、あながち非難することはできないであろう。(中略)カントが『最高善』の実現のための必須条件としての『不死』と『神』との理念の『実在性を想定』したことは、無制限な実践的認識の拡張としてではなかった。理論的認識において重要な役割をなすのが『範疇』であったように、同じく実践的認識の拡張に際しても、理論的認識の構成において適用されるすべての『範疇』ではないけれども、少なくとも純粋思惟のための『範疇』は適用されて、その実践的認識の拡張の放恣な逸脱を防止しなければならないことをカントは警告するのである。そしてこれらの実践的要請を『神人同形論』や『自然学的神論』に陥らしめず、人間理性に対して理性本来の無限の活性化の力を喪失せしめる迷信を防止するとともに、理性の実践的要請を全く幻想のうちに求め現実界を無視する狂信からこれを守ろうとするのである。そしてそのかぎりにおいて、カントの宗教哲学は、カントの法律哲学、政治哲学、芸術哲学等々と背反するものではありえず、それらとよく相補関係に立ち、むしろそれらの根底にあってそれらを支えるものをなすべきものなのである。」(高峯一愚著『カント 実践理性批判解説』〔論創社〕p256~258)

 

<世界の究極的原因といったものを考える上で、われわれが懐疑論に落ち込まないためには、そういう仕方で「絶対的な自由」(先験的自由)というものを想定する以外の方法はなかったのである。(中略)この「自由」の概念は、もしその「客観性」が実践理性の法則としてたしかに証明されるなら、純粋理性の哲学体系のいわば「要石」をなす概念となるだろう。そしてこのとき、『純粋理性批判』においては決して証明されず、単に「概念」としてだけ認められた他の重要な概念、つまり「神」および「魂の不死」の概念も、もういちど疑いえない現実性を取り戻すことになるだろう。前著で世界の根本理念として挙げた「神」、「自由」、「魂の不死」という三つの理念のうち、「自由」はわれわれが直接に知っている唯一の理念である。(中略)しかし、「神」や「魂の不死」は、道徳的行為それ自身の条件というのではなく、道徳に意味と根拠を与える、「最高善」という目標の条件であるにすぎない。また「神」や「不死」については、それを客観的な実在として証明することは決してできないことを、すでに前著で詳しく見てきた。

(☆⇒第一批判(『純粋理性批判』において、「神」「自由」「魂の不死」は、その客観的存在を証明することはできないが、しかし理性がその推論の力で世界を完全な仕方で思い描こうとするとき、不可避的にもたざるをえない世界の理念であるという意味で、世界の「先験的理念」と呼ばれた。また「最高善」は、「最も道徳的な人間が、最も幸福になるような世界の状態」という道徳の理想的理念を意味し、これがなくては「道徳」の意味が失われることになる。カントでは、この理念の実現の可能性の原理として、神=至上存在がある。)

だがこの二つの理念は、「道徳」を根拠づける「最高善」の条件である以上、その理念の可能性について、われわれはこれを想定せざるをえない。つまり、理念の可能性という観点からは、われわれは、この理念が論理的に内的矛盾を含んでいないことを示すことができればよいのである。この理念の想定は、思弁的理性では、単に主観的なもの(⇒「最高善」があると自分は信じる)にすぎなかった。しかし、純粋な実践的理性(⇒純粋な道徳的意志)においては、それは『客観的に妥当する』といえるものとなる。こうして、「神」および「不死」の理念は、もし実践理性における「自由」の理念の可能性をはっきり証明することができれば、最高善の根拠としてのその現実性が明らかとなるだけでなく、これらの理念をわれわれが想定せねばならない理由(「主観的必然性」)も明確になる。私はこれを「純粋理性の必要」と呼びたい。むろん、繰り返しいうように、このことでこれらの「理念」の客観的な実在性が証明されるわけではなく、いわばその「可能性」が確立されるだけである。だが、この「可能性」は、理論理性では単に一つの「問い」にすぎないものだったが、この実践理性の領域では、むしろ積極的に「主張」されるものとなるのである。>(竹田青嗣著『完全解読 カント実践理性批判』〔講談社選書メチエ〕p13~15)

 

<われわれはつぎのことを忘れてはならない。『およそ一切の関心は、ひっきょうは実践的であり、思弁的理性の関心すらけっきょく条件つきであって、理性の実践的使用においてのみ全きを得るのである。』(245)(⇒およそ「関心」とはせんじつめれば「実践的関心」なのであって、理性的思弁の関心ですら、それがわれわれのいかに生きるかという問題に結びついているかぎりで、はじめて意義をうる。)

(☆⇒ここでの思弁的理性と実践的理性の「優位」についての議論の要点を、ほぼつぎのよう。思弁的理性からは、「心の不死」や「神の要請」といったことは、理性の正当な推論の限界を超えていて、客観的認識として証明することはとうてい不可能である。しかし、道徳性の原理の正当性については、実践的理性と思弁的理性は同じ原理でこれを認めてよい理由をもっている。実践的理性は、この道徳性の原理から「最高善」を推論し、また最高善の理念から、その可能性の原理として「心の不死」や「神の現存」を推論する。これに対して、思弁的理性は、この実践的理性の推論を客観的認識としては認めないが、しかし、理性の実践的関心の不可欠な帰結であることは認めて受け入れることができる。純粋な理論の態度としては、心の不死や神の現存は客観的認識として証明されえない。しかし、思弁的理性といえども、いかに生きるべきかという問題において、実践理性が生み出すこの理想理念の要請がわれわれにとって必然的な要請であり、また理論的な認識とはいえないことは認めざるをえないからである、と主張されている。)

 

四 純粋実践理性の要請としての心の不死

 

『君の意志の格律が・・・・』という道徳的法則にしたがって人間が生きようと意志することは、論理的には「最高善」の状態を実現しようとする目標に帰結する。またこの場合の意志は、『心意が道徳的法則に完全に一致することをもって、最高善の最上の条件としている。』(246)すなわち、最高善の実現は、人間の心意がつねに道徳的法則と完全に一致するような状態の実現を意味している。このような心意と道徳的法則の完全な一致の状態をわれわれは「神聖性」と呼ぶことができるだろう。それは理念としては存在するが、生身の人間においては到達しえないような完全性の境地である。しかし、にもかかわらず、この完全な一致の状態が必然的なものとして要請されるなら、その可能性は、ただ人間の心意と道徳的法則との『完全な一致を目指す無限への進行のうちに』、見出されることになるのである。だがまた、このような完全な一致を目指す努力の「無限の進行」は、一人の人間の人格(心=魂)が無限に存続するということを前提とする。つまり最高善の実現があるとすれば、それは人間の「心の不死」(魂の不死)を前提としてはじめて可能となるのだ。こうして、「心の不死」は、実践的理性が道徳的法則と結びついているかぎり、「純粋実践理性の要請」となるのである。(⇒「要請」とは、その事実については証明できないが、実践的観点からすれば理論的に必然的であるような命題を意味する。)

さて、目標に向かっての無限の進行のうちにおいて、人間の心意と道徳的法則との完全な一致の可能性がなければならない、というこの実践理性の「要請」は、ただ客観認識をこととする思弁的理性の無力を補うだけでなく、宗教的な観点からもきわめて重要な意義をもっている。もしこの要請がなければ、われわれは安易な気持で道徳的法則を何か寛容なものと見てその「神聖性」を見誤ったり、あるいはこの完全な一致という目標の実現を性急に求めて、狂信的な神智学的夢想に陥ったりして、結局この理性の厳正な命令への不断の努力という目標をもてなくなるからである。

われわれ有限な存在者である人間にとっては、道徳的完全性を目指して、低い段階から不断により高い段階へと進むべく絶えず努力することだけが可能である。そして、時間を超越した無限者である神は、この無限の時間の系列の中で人間の心意と道徳的法則の完全な一致に配慮しており、われわれ各人の努力を正しく知り、それに応じて最高善の「分け前」を公正に配分するはずである。こうして、有限なる存在であるわれわれが神の御心に適おうとするなら、ただ自らの道徳的心意にたゆまず配慮する以外にはない。したがって、この道徳的心意への配慮は、つねに悪を嫌い、道徳的な善を目指す努力を積み重ねるだけでなく、そのような態度と心意を、「この世を越えても」持続しようとする決意にともなわれねばならない。それは、遠い未来のどこかの時点で道徳的完成を実現するためというより、神のみが知る無限の彼方において神の神聖なる意志と合致せんがためなのである。

 

五 純粋実践理性の要請としての神の現存

 

われわれは道徳的法則から最高善の概念を導き、そこから現」われる道徳性の完成という第一の課題を解決するために、「心の不死」という要請を導いた。つぎに第二の課題として、道徳性に値するものとして「幸福」の可能性について考えよう。あらかじめいえば、ここで要請されるのは「神の実在」という理念である。なぜだろうか。幸福とは、人間がその欲望を思い通りに実現し満たすことができるという状態であり、つまり人の意欲と自然状態との一致を意味する。しかし道徳的法則から現われる意欲は、そのような自然との一致とは何のかかわりももたない。つまり、道徳的法則は人間存在に「徳」を与えるが、その徳に値する「幸福」をもたらす保証もまったくもっていない。

こうして、「道徳」と「幸福」は一致する保証をもたないが、にもかかわらず最高善の理念からは、「道徳」と「幸福」の一致の可能性があるのでなくてはならない。もしそうでなければ、最高善は単なる空疎な理念となってしまい、「道徳」にとっての高遠な目標たりえない。それゆえ、最高善の理念が可能性として確保されるためには、道徳と幸福とを一致せしめるなんらかの「原因」の存在が要請されることになる。このような「最上原因」、つまり『自然と理性的存在者(⇒人間)との一致の根拠』、つまり精神的存在の最上原因であるとともに自然の最上原因でもあるような存在は、この自然と精神の調和を自ら意志する叡知者であり、そのような存在をわれわれは「神」と呼んでいるのである。

(☆⇒この「自然と人間の一致」とは、すべての人間が道徳的生き方を心がけるなら、いつの日かこの世からすべての矛盾が解消し、全世界が自然としても精神としても美しい調和の状態へと進んでゆくことを「神」が保証する、ということを意味する。)

したがって、われわれが理性によって導いた最高善の理念の要請は、とりもなおさず『根源的最高善の現実的存在――すなわち神の実在を要請すること。』(252)を意味する。最高善を目指すことがわれわれの義務であるかぎりその可能性を前提することはこの義務と結びついた必然性である。そしてまた、最高善は「神」の存在という条件によってのみ実現の可能性をもつから、神の「想定」あるいは「要請」は、われわれの道徳的な必然性であるともいえるだろう。だがこのとき注意すべきなのは、この「道徳的必然性」は主観的なものであって決して「客観的」なもの、「義務」それ自体ではないということだ。ここで求められているのはあくまで神の存在の「想定」であって、「神」の存在がわれわれの責務を生じさせる必然的な根拠として現実に存在する、というのではない。道徳的義務はあくまでわれわれの理性の自律にもとづくものでなければならないのである。(☆⇒この言い方はやや分かりにくい。まず、「神の存在」を客観的事実として認めるべきというのではなく、ただ道徳的心意として想定されるべきだということ。つぎに、われわれが道徳的義務をもつのは、神がそれをわれわれに課しているからと考えるべきでなく、道徳的義務はあくまで理性の自発性にもとづくべきである、ということ。)

われわれが最高善の実現をめがけるべきだとすれば、その可能性の根拠として「神の存在」を想定する以外にはない。また義務は道徳的法則からやってくるが、それは最高善という目標を必然的にもたらす。ここから、「神の想定」が道徳的な義務の意識と結びつくのだ。だから、「神の存在」は客観的認識ではなくあくまで一つの「仮説」なのだが、道徳的観点からはこれを純粋な「理性的信」と呼ぶことが許されるだろう。

こう見てくると、いまやわれわれは、古代ギリシャ哲学が最高善の可能性の問題を十分に解決できなかった理由をよく理解することができる。ギリシャの諸学派は、最高善の問題を考えるにあたり、「神の存在」という概念を考慮に入れることなく、ただ人間の理性と自由な意志との関係から道徳の原理を導くことによって、これを解決できると考えた。意志の自由を道徳の根拠とする考えはなるほど妥当であったが、しかしこの考えのみによっては、「徳福一致」の難問が解けないということに彼らは気づかなかったのだ。(中略)

 

六 純粋実践理性一般の要請について

 

三つの要請「自由」「不死」「神の現存」はすべて道徳的法則から現われたものであり、そのかぎりでこれらの要請がわれわれの理性の自由な意志を律するのでなければならない。しかし、これらの要請は、なんらかの教説(ドグマ)ではなく道徳的法則からの必然的な帰結であるから、これを客観的認識の拡張と見なすことはできない。しかしそれでもこの要請の考えは、思弁的理性が想定しておいた諸理念(心、自由、神)に対して、ある論理的な正当性を与えるものとなる

第一の要請、「心(魂)の不死」は、人間の魂が、時間の無限の歩みのなかで道徳的法則と完全な一致にいたる可能性の条件をなしている。第二の要請、「自由」、つまり感性界ではなく可想界としての人間の原因性は、人間が自律的に、つまり自らの自由な意志において道徳的法則に完全に一致する可能性の条件を意味し、最後に第三の要請「神の現存」は、道徳と幸福の完全な一致、すなわち最高善の実現の可能性の条件を意味するのである。これら三つの要請を通して、はじめてわれわれは、思弁的理性の考察(『純粋理性批判』)では解決できなかった三つの根本概念を解明することができるのである。

第一は、心の実体性に関する「誤謬推理」である。『純粋理性批判』において心の実体性は証明不可能な推論にすぎなかったが、いまや「不死」の要請をおくことによって、「心」の実体性をとらえることができる

第二は、「自由」の存在に関する「アンチノミー」である。思弁的理性においては、われわれはそれを「可想界」という想定において蓋然的に理解するにとどまった。だが実践理性では、「自由」の要請を通して、また道徳的法則の概念を通して、「可想界」の現実的な概念規定に達することができた。

第三は、「神」の存在について、思弁的理性においてこれは、単なる「先験的理想」として想定されるにすぎなかった。しかし実践理性においては、これを道徳的法則の見地から、「可想界における最高善という最上原理」として意義づけることが可能となったのである。

しかし、何度もいわねばならないが、この「要請」の概念によってわれわれは、「心の実体性」「自由という原因性」「神の実在」という問題について、「客観的な認識」を拡張したしたわけではない。ここでは、いわば超越的だった諸概念は内在的なものとなったのであり、言い換えれば、実践的な見地においてとらえ直されたということなのである。われわれはこれらの諸概念の本質を、道徳的法則の概念、したがって最高善とそれをめがけるわれわれの意志の自律(自由)という概念から、一体のものとしてとらえ直した。だが、それらの存在を「客観認識」にもたらしたのではない。たとえば、世界についての宇宙的理念(起点があるか、限界があるか)と同様、「自由」それ自体がなぜ、いかに可能になっているのかは、依然として人間の理性では答えられない問題としてとどまる。しかしそれにもかかわらずわれわれは、道徳的法則の見地から、人間の「自由」が存在すべきであり、同様に不死や神の存在についてもそうあるべきであることをいまや深く理解する。思弁的理性がこれに対してどれほど理論的な懐疑をおこうとも、この道徳的理念に対して、「極く普通の人間ですら懐いている確信」を決定的に揺るがすことはできないことを、いまやわれわれははっきりと知るのである。>(同書p167~179)

 

 

カントの「要請」概念について。(~『カント事典』〔弘文堂〕)

 

<要請[(独)Postulat] 【Ⅰ】経験的思惟一般の公準

様相のカテゴリーに関する一連の純粋悟性の原則のことで、この意味では「公準」の日本語が当てられ、「経験的思惟一般の公準」の名称が当てられることが多い。カントによれば様相のカテゴリーは「それらが述語として付加される概念を客観の規定としていささかも増大するものではなく、認識能力との関係だけを表現する」[A 219/B 266]ものである。そして様相の原則は、他の純粋悟性の諸原則同様、このカテゴリーを可能的経験とその綜合的統一だけに関係させ、そのかぎりで「対象概念の産出」というかたちでの対象概念と認識能力との関係を表現するのである。ところで数学における「公準」は「われわれがそれを通じてある対象をまずわれわれに与え、それからその対象の概念を産出する綜合以外のなにものも含んでいない」(A 234/B 287)ような実践的命題を意味するが、かかる命題は、それが要求する手続きによってはじめて対象の概念が産出されるようなものであるために、証明されることはない。様相の原則が「公準」と呼ばれるのは、こうした数学における「公準」にならったものであり、それがある概念について「それが産出されるところの認識能力のはたらき」[同]を述べるものであることによる。この原則に関して証明が付せられていないのも、数学における「公準」と同様である。こうした事情をカントは、様相の原則は「主観的にのみ綜合的」[A 234/B 286]である、という言葉でも表している。

(以下、省略)

【Ⅱ】純粋実践理性の要請

理論的命題ではあるが、それがアプリオリで無条件的に妥当する実践的法則と不可分に結合している限りで証明できない命題[vgl.KpV,V 122]を意味する。カントによると、意志を直接に規定する定言命法によって実践的に必然的なものとして表象される意志の対象としての目的、すなわち最高善が与えられている。しかしこの最高善は道徳性と幸福との結合を意味し、かかる結合は単なる純粋理性概念であるような理論的概念を前提しなければ可能ではない。それは、「自由」「不死」「神」の三つである。そこで、最高善の現存を命ずる実践的法則はこれらの客観の可能性すなわち客観的実在性を「要請」する、とされるのである[vgl. KpV,V 134]。これが「純粋実践理性の要請」と呼ばれるものである。この場合、「神」と「不死」の理念は、要請としてはもはや「私は何を知ることができるか」という問題ではなく「私は何を希望することが許されるか」という問題にかかわるものとして拡張されるのであり、「信憑」としては「知」ではなく「信仰(Glauben)」に分類される。ただし、自由のと概念については「信仰」に分類されることはなく、『判断力批判』などではむしろ「事実に属するもの(res facti)」とされる[vgl. KU,V 468]。自由の理念と他の理念との位相の相違については『実践理性批判』の序文でもふれられ、神と不死の理念が道徳的法則によって規定された意志の必然的客観(最高善)の条件であるのに対し、自由の理念は道徳的法則の条件であるとされている[vgl. KpV,V4]。要請は、理論哲学と実践哲学との両方に関わる。すなわち、理論哲学において認識の体系的統一の完成を意味する無条件的なものの概念でありながら積極的な認識をもたらすものでなかった純粋理性理念を、実践哲学における必然的前提とすることで実践的な意味で、つまり道徳的法則との関係において拡張する。この拡張が可能であるのは、この場合の理性使用において実践的関心が優位にたつことによる(実践理性の優位)。しかし、この拡張によって理論的連関における認識が拡張されたことにはならない。なぜなら、この拡張によってこれらの概念が実在的であるということは主張しうるが、しかしその際に客観の直観はまったく与えられないからである[vgl. KpV,V135]。これを要するに、要請は感性的なものに関してのみ可能である理論哲学と超感性的なものに関わる実践哲学の境界を踏み越えることなく両者を体系的に連関させるものであると言うことができる。こうした考え方は体系的統一の観点から多くの解釈者たちの関心を早くから集めたが、他方で絶対的なものの把握としては「信仰」という主観的なものにとどまっているといった批判(ヘーゲル)も寄せられている。

【Ⅲ】実践理性の法的要請

『人倫の形而上学』第一部「法論の形而上学的基礎づけ」でカントはまず「仮にある格率が法則となった場合にこの格率に従えば選択意志のある対象がそれ自体として(つまり客観的に)無生物(res nullius)とならざるをえないものとすると、こうした格率は違法である[VI246]という命題を「アプリオリな前提」としてたて、ここから可想的な占有(possesio)を推論し、そこから権利の概念へとすすむ,という議論を展開している。

 

 

(以下は雑記)

 

 

 

 

序文 キーワードは・・・

 

「絶対」と「超越」と「天地創造」と「人格」。

 

「実践」と「要請」と「自己限定」と「知止」。

 

<意思の行為はことごとく自己限定の行為である。ある行動を望むとは、すなわちある限定を望むことなのだ。(中略)何物かを選ぶことは、他の一切を捨てることである。>

 

(~ギルバート・ケイス・チェスタートン

 

http://todays-list.com/i/?q=/naVajbgb/1/4/ 

 

 

 

   要請される「神」

 

「共同主観」、「神の自己限定=啓示」

 

フッサールの哲学においては「間主観性」と「共同主観性」とは同じことらしい(検索すると別に、「相互主観性」という用語もあるようだ)。

 

http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ka_intersubjectivity.html 

 

主観性というのは、人間の意識をあくまでも個人的なものとして捉え、他の人間との関係を捨象してしまうことであり、観念性というのは、世界の存在を人間の意識の相関者として矮小化することであり、抽象性というのは、ひとりひとりの人間が生きている社会的・歴史的繋がりや制約を、それが全く無視していることをさす。社会的・歴史的な制約のなかで具体的な生を生きている人間を、あらゆる制約から自由な抽象的な人間と取り違えているわけである。
こうした問題については、フッサールも一定の理解を示していた。かれの「間主観性」という考え方は、人間が孤立した抽象的存在ではなく、他の人間との関わりにおいて生きる存在だということをとりあげたものだ。しかし、フッサールは「間主観性」を、ひとつひとつの抽象的な主観性から出発して説明しようとした。しかし、ひとつひとつの抽象的な主観性(意識)が、どのようにして意識の共同体である「間主観」的な世界を形成するようになるのか、その筋道は明確にはならなかった。明確になったのは、人間というものは孤絶して存在しているものではなく、他の人間との間で共同体を作らずにはおれないという事実だった。哲学といえどもこの事実は軽視できない。フッサールが言ったのはこのことだったわけである。しかし彼は、そういっただけで、個人と共同体とのかかわりについて、スマートなモデルを構築することはできなかった。それゆえ彼は、新しい哲学の開拓者と言うより、古い哲学の後継者と言ったほうが相応しい。
廣松も、人間の意識から出発して世界の存在構造を明らかにしようとする点では、フッサールの問題意識と共通するところがある。そして、フッサールがそのキーワードとして使った「間主観」という言葉の代わりに、廣松は「共同主観」と言う言葉を使う。だが、廣松が「共同主観」という言葉で意味したものは、フッサールのそれとは大分異なっている。フッサールの場合には、一人ひとりの個人の意識が連帯して意識の共同体を作るという道筋になっているのに対して、廣松の場合には、人間の意識には当初から、すなわちアプリオリに共同体的な性格が刻印されていると考えられている。無論その刻印は、先天的になされるわけではなく、後天的に獲得されるものであり、その点で、厳密な意味でアプリオリとは言えず、アポステリオリな性格が強いが、それだからといって、人間の認識を運命的に制約していることにかわりはない。

 

https://philosophy.hix05.com/Japanese/Hiromatsu/hiromatsu11.sekai.html 

 

 

 

信仰というものが主観的なものであり、同時に「神」から与えられる「信心」としての受動的・恩恵的なものであることを聖書を根拠に前提することができるなら(単なる主観ではなく「共同主観」であり、それが「共同」たり得るのは「信仰」が「神の賜物」だからである。聖書的信仰の、この「共同主観」と「受動的・恩恵的」という2つの特性は相関関係にある)、「神」をこの実存的現実(各個人における対神関係)抜きに一般論的に問うところの(「ヤフー知恵袋」の宗教カテに多くみられるような・・・)聖書の神に対する誹謗中傷的な(無信心者の)意見は、まったく意味をなさないことになる。聖書的信仰の上記の二大特性が十分考慮されているとは言えないが信仰を「主観的なもの」としているのが下に引用する上村静氏である。上村氏の持論は結局、「<いのち>(神)」体験主義であり、八木誠一氏の言う場所論的神学の類であろう。だから「恩恵的」視点が弱いのは人格主義的観点を欠くからである。私の立場とは神観を異にする。しかし信仰論的には通じるものがある。

 

『信仰』は徹底して個人的・主観的なものであって、たとえその当人がキリスト神話を事実だと信じていると主張していても、その『信仰』は客観的な事実にもとづいているわけではない。・・・・キリスト神話は、神がイエス=キリストを通して『歴史』に介入したと語る。それが『歴史』的な出来事であるとされているがために、キリスト教はこれまでその客観的な史実性を自らの唯一絶対の『真理性』の根拠、『普遍性』の根拠にしてきたし、信徒もまたそのように信じているものと思いこんでいる。しかしながら、そもそも今日にいたるまでのキリスト教を形成してきた信徒ひとりひとりの『信仰』は、実はそうした客観性などにはもとづいていないし、その必要もない。」(『キリスト教の自己批判』〔新教出版社〕p114115

 

たしかに「信仰」は「個人的」なものではあるが同時に「共同的」なものでもある。「個人的・主観的」なものにとどまったら聖書的信仰とはならない。聖書が示す「神」はあくまでも共同体の神であり、その共同性を象徴するものが「三・一」なのである。すなわち「三・一」は神論ではなく神人関係論である。したがってその「一体」とは「神の本質」の同一性を意味するものではなく(それこそが神話であって、現代的意味は神の共同性を象徴する「定式」にしか認め得ない。すなわち実体論的三一論は批判される)、「神」自らが共同性を体現しているということ。従って具体的にはイエスはあくまでも人であり、「神」の共同性はイエスに付与された「キリスト」すなわち「ロゴス」(神の言)との関係、および「聖霊」(神の霊)との関係である。それらが「唯一の神」であるが分節可能であるのは、神の言も神の霊も、働きとして人間に自覚される時、それは人格性を(比喩的に)帯びるからである。

 

もちろん、上村氏は倫理的には共同性(共生)を重視して指摘しておられる。

 

「キリスト神話は、人間に対する神の無償の愛(「罪の赦し」)を語る。それは自己愛の根拠であり、それゆえにその応答として神への愛、他者への愛が生じてくる。この神話の内実は、関係のなかで生かされて在る<いのち>という洞察である。それは他者との比較によらない存在肯定の<絶対根拠>を提示する。人間は、存在するだけで、何をするかしないか、できるかできないか、何者であるかといった属性とは無関係に、世界史上に唯一の者として、すでにありのままで肯定されて在ったのだ。このことに気づくとき、エゴイズムを克服することができるだろう。この洞察は、自他の<いのち>への畏怖と敬意ゆえに、他者との共生を志向する。自己愛があってはじめて他者への愛、被造物への愛が生じるのであり、それが創造主たる神を愛するということだ。」(p116118

 

このあたりは八木誠一氏の影響を感じる。

 

認識論的信仰論においては、信仰はパスカルの言うような意味での「賭け」ではない。なぜなら「信仰」は「認識」と違って恩寵なので、ハズレることはないからだ。

 

「キリスト教は『イエス=キリスト』を伝える。しかし、『イエスがキリストである』という事態は事実なのだろうか。事実というのは『信仰』の対象ではなく認識の対象である。事実であると信じる信仰というのは、賭け事としての信仰であり、もしかしたら事実ではないかも知れない可能性を前提とする。つまり、事実への『信仰』は不信を内包しているのである。そしてその不信を払拭するために信仰熱心を演じることになる。だが、『信仰』とは本来『信頼』であり、『安心』であり、自己の存在肯定であるはずだ。」

 

(上掲書p110

 

 

 

 

 

 

「絶対(他)者 ~脱虚の実践的「神」論~」というタイトルの本は、自分のブログ「全一者」を参照して書く。電子書籍による低コストでAmazonから売る。

 

(序)信・望・愛の(精神安定)人生のために実践的・実存的に要請される神観。

 

  「要請」と「実践」とは不可分である。

 

「要請」とは、その事実については証明できないが、実践的観点からすれば理論的に必然的であるような命題を意味する。

 

https://doukousya.jimdo.com/%E8%A6%81%E8%AB%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B-%E7%A5%9E/ 

 

宗教における「実践」の意味は必ずしも倫理・道徳といった「対人」関係の行為に限らず、「対神」と「対自」の両関係における行為。前者では礼拝や祈り。後者では生活全般であり、その生活の基盤となる精神の安定など・・・。

 

 

 

つまり『純粋理性批判』は、「純粋思弁理性を制限する批判であると同時に、純粋理性の「実践的拡張をも保証する批判であった。そしてカントは、そこでさりげなく付け加える。「それゆえ私は、信仰に場所を得させるために、知識を廃棄しなければならなかった」、と。この言葉は、それまで「知識」とか「信仰」についてなにも語られていないから、一見唐突に見える。いったいここで廃棄されなければならないとされる「知識」とはどのような知識であり、また場所が与えられるとされる「信仰」とはどのような信仰なのであろうか。前後の脈絡からすると、廃棄されるべき「知識」とは、旧来の独断論的な形而 上学が超感性的なものについて主張する寸法外な洞察」であり、「見せかけの知識(メツサ)であって、「信仰」とはそうした見せかけの知識によって障害を蒙りかねない超感性的なもの(特に神)に対する宗教的(キリスト教の)信仰である、とも考えられる。だがそれならば、カントはなぜ法外な知識もしくは見せかけの知識を廃棄すると言わないで、端的に知識を廃棄すると語るのであろうか。しかもこの箇所の原文は、・・・・・であって、これは「それゆえ私は、信じることに場所を得させるために、知ることを止めなければならなかった」とも読める。またもしここで語られていることが、理性の思弁的使用の制限からその実践的使用への拡張を、したがって思弁理性から実践理性への移行を告げていると見るならば、知ることを旨とするのはもっぱら思弁理性であり、これに対して実践理性は「知ること」を止めてもっぱら「信じること」を旨とするとも読めるであろう。実は私はこのように読みたいが、しかしはたしてこの言葉をこのように理解してよいであろうか。それが理性である限り、その実践的使用において可能となる実践的認識において、実践理性といえども、は、依然として「知ること」を必要とするのではなかろうか。もし実践理性にとって、「信じること」が本来の眼目であるとするならば、その場合に「信じること」と「知ること」とは、お互いにどのように関連しあうのであろうか。(~宇都宮芳明氏の論文「カントと理性信仰」)

 

 

 

宗教における「実践」の意味は必ずしも倫理・道徳といった「対人」関係の行為に限らず、「対神」と「対自」の両関係における行為。前者では礼拝や祈り。後者では生活全般であり、その生活の基盤となる精神の安定など・・・。

 

 

 

「神」については客観的にどのように説明されているかを学ぶことが主旨ではない。いくらユダヤ・キリスト教およびイスラム教で歴史的に「神」が説かれ定義されてきているにしても、問題は自分自身が実存的にその「神」との関係を生きることができなければ意味がない。それすなわち、自分自身が生きる上で「神」との関係にどのようなことを必要とするか?である。「必要」は発明の母であると同時に信仰の母でもある。実存的な信仰はすくなからず要請されて成り立つものなのだ。その正当化の根拠として「実践」ということが言われる。「実践」(practice)は、哲学の概念としてはアリストテレス~カントの流れの「哲学で、
㋐人間の倫理的行為。アリストテレス用法で、カントなどもこの意味で用いる」とある。しかし「実践」は「多種多様な形態をもつ。またどの分野の実践が重視されるかは古来から思想傾向によってそれぞれ異なっている。宗教家は宗教的実践を第一に重視し,心情や意図よりも社会的効果を重視する政治家にとっては政治的実践が決定的要素となる」とある。

 

 

 

「実践」にもいろいろあるわけで、倫理・道徳の行為ばかりがそれではない。用は生きるために役立つことならよいのだ。矢内原忠雄氏はまず「絶対、唯一、人格」といったことが要請されて、これに合った聖書解釈が施され、キリスト教会の教義である「三位一体」は認められてはいるが、あくまでも「一」に重きが置かれている。要請的信仰は聖書という規制なしには恣意に堕し偶像崇拝に陥るが、規制が強すぎるとルター派の「紙の教皇」のごとき信条主義ないしは原理主義のような硬直した宗教になり、「神」を信仰しているというより教会組織を盲信しているといったことになる。その反動の敬虔主義など体験重視は神秘主義に近づく。

 

それはまたそれでよろしくない。

 

だから主題は「絶対者」などよりも「要請される『神』」とでもするほうが内容に合う。そのためにはカントの理性信仰をある程度は理解しておく必要がある。

 

「カントによって中世以来の神の存在の証明が根本的に批判され、純粋理性によるその証明が拒否され、神は実践理性によって要請されるのみであるという道徳的証明だけが妥当するものとされた。」(高尾利数~『教義学講座 Ⅰ』p124125) 自分はその「実践理性」による要請の領域を道徳のみならず生活全体にまで拡げて理解する。これは矢内原氏の考え方と通じるはず。

 

 

 

 序

 

(1章)信仰の「共同主観」性・・・聖霊論の神論・キリスト論に対する先行性

 

・・・ウ信条の例。リベラル的立場では、復活イエス顕現の500人目撃証言が示すこと・・・もちろん客観的事実(史実)ではなく説話。

 

   「啓示(認識)」の「非・客観性」・・・聖書解釈の問題。

 

   「神認識とは、神との交わりである」(高尾利数氏前掲書p122)。

 

    人生において何よりも重要なことは、対神関係の現実なのである。

 

    信仰(心)という(共同)主観なしに、「神」については何もわからない。一般人の科学(客観)的見地からの混同による神義論的問い。

 

(2章)矢内原忠雄の「絶対、唯一、人格・・・神の本質」。

 

  「絶対主義的天皇制」、「国体の本義」などにもふれて・・・

 

(3章)量の哲学的「有的絶対者」と宗教の「無的絶対者」、「絶対無→非人格」。波多野精一へのユニテリアン批判の是非。「絶対的実在」。

 

(4章)小田垣・西谷の「絶対無・・・人格・・・生きられうるもの」

 

(5章)野呂の「絶対」と「究極」、佐藤研の神(絶対)人間(相対)の各区別。

 

   これに小田切信男の「絶対」に関する考えを入れ込む。

 

(6章)八木の「絶対他者即絶対自者」他。

 

(7章)「即(非)の論理の禅的・神秘主義的詭弁性について」

 

   大拙の「即非の論理」ないしは「無分別の分別」などの(宗教)哲学的ロジックは「大乗仏教」ないしは「民衆の宗教」という観点からすれば「考え過ぎ」であり、抽象的すぎてわけがわからない。エリート主義ではなく民衆救済の宗教のロジックは「分別知」にとどまるべき。

 

   (例話)養賢寺住職の非人間的な態度と修行僧の人間的な態度との対照。

 

   ただし「絶対受動即絶対能動ということ」は「西国立志篇」の自助にこそ天助が経験されるといった事柄として諒解される。

 

   http://annyouzi.click/wp/nishida-gyakutaiou1/ 

 

   なお、田中裕氏の論文「西田哲学とキリスト教」では、<即非の弁証法すなわち西田のいう絶対矛盾的自己同一が、自己と絶対者との関係について述べられるに先だって、絶対者自身の事柄として論じられ、「絶対の神は自己自身の中に絶對の否定を含む神でなければならない」ということ、「悪逆無道を救う神にして、真に絶対の神である」という独自の神観が提示される。 西田の云う「即非の弁証法」は、キリスト教論に適用されることによって、日本化された仏教の典型である天台本覚論などの「煩悩即菩提」「生死即涅槃」のごとき絶対否定を含まぬ「即」の融通無碍の立場とは質的に異なる論理となっている。>と言われており、同じ「即」の論理にも違いがあるらしい。

 

 

 

(8章)結論

 

(おわりに)

 

 

 

松本正夫氏の論文「絶対他者と絶対自己の理念的対決」の中で、以下の文言から次の点を学び取れる。

 

 

 

超越的一神論のヘブライズムがユダヤ人の居留地(ディアスポラ)を通してヘレニズム世界に大きな波紋を拡げはじめたとき、フィロンはその思想運動の代表者であった。自然から神へ、形而下から形而上へ、様するに下から上へ向う本来のヘレニズム哲学の営みはここで、大きな変形を蒙り、上から下へ、神から自然へ、形而上から形而下への、要するに一者から世界が発出するという今までとは全く逆な、ヘブライズム神学に固有の方向が第一義的となり、ヘレニズム哲学に従来固有であった下から上への営みはここでは第二義的な還帰過程に組込まれるにいたる。フィロンは哲学的にはピタゴラス的なプラトン主義にたちながらも、旧約聖書の寓喩的解釈を導入し、極めて神学的な表現をもって自らの立場を展開したのであるが、これから二百年後プロティノスはこの同じ発出と還帰の体系を、表現上極めて哲学的に、すなわちフィロンに顕著であったヘブライスム的特色を一切払拭し、ヘレニズム哲学の完全な外装下にこれを再現し、いうところの新プラトン主義を体系として確立したのである。」

 

 

 

八木誠一氏のいう「絶対他者」と「絶対自者」との即の関係は、自我に自己が現れるといったことのようだが、「絶対他者」は「超越」性と不可分であり、「絶対者を超越他者とする」のが「啓示宗教」で「内在自己とする」のが「悟得宗教」であるとの対照からすれば、「絶対自者」とは後者である。

 

キリスト教神学自体、インドのウパニシャド・・・アートマンの思想の影響を受けているとするなら、それは肝心のキリストの神人二性一人格の教義にも及んできて、異教であるとかないとかは言えなくなる。

 

近代の人間中心主義がキリスト教を前提とし反立として成立したように、日本の絶対神的天皇観もまた、キリスト教を前提とし反立として成立した。